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本誌取材班ルポ① 東日本大震災、「前触れあった」

2年前から深海魚の水揚げ、昨年は大量のマツタケ

 津波を避けるため高台に立てられた岩手県宮古市田老総合事務所(旧田老町役場)は、目の前に広がる茶色の瓦礫の山に比べると、白衣の天使のようなたたずまいで建っていた。だが、同事務所に上る階段に添えられている手すりは、ひん曲がっていた。津波は階段まで押し寄せていたのだ。紙一重で太刀をかわし、パラリと額の鉢巻が落ちる決闘跡を見た気になった。


37・9メートルの津波に襲われた岩手県宮古市田老

picture 林本家の2階からみ見た宮古市田老地区の被災風景、目の前の14軒の一角だけで8人が死亡した

 東日本大震災で津波の高さが37・9メートルに達していた岩手県宮古市田老では、その前ぶれを危惧する声が町民の間で広まっていたことが、現地を取材して判明した。

 「正直何かが起きると思っていた」と田老館が森で食品店を経営する林本その(73)さんは語った。

 「田老では、2年前から深海魚が取れるようになった。昨年はマツタケが大量にとれた。みんな、これはおかしい。何かが起こっている」と噂になっていたという。

 林本さんは3月11日は宮古市の病院に行っていて、被災を免れた。田老の自宅にいた息子とは携帯がつながった。息子は「家の2階の窓から、潮と一緒にメバルとカレイが入ってきた。一階には軽トラと松の木が2本入った」と口早に語った。村林さんは、「その時、息子は頭がおかしくなったと本気で心配した」と笑った。

 林本さんの家の前の14軒の一角だけで8人が死亡した。中には孫の顔を見せに帰宅していた娘さん家族と母親の3人が亡くなったケースもあった。

 「よりによってねー」

 「まだ、みんなショックが大きくて、まともなことを言わなくなった人もいる。また、いつもにこやかでお喋りが好きだった人も、言葉が消えた」(林本さん)という。津波はなお人の心にも押し寄せていて、なかなか引かない。

 林本さんは「これまでお世話になったご近所さんに、気軽に立ち寄れるようにしてお茶でも出して話し相手になり、もてなしたい」とけなげだ。非日常的な非常事態に遭遇してショックの余り欝(うつ)になったりした人も、日常生活の中で直していくしかない。そうした心の被災者にとって、こうした町の「おばちゃん」の存在こそは、心強い限りだ。

 その林本さんも、古い知人から感動的な励ましを受けている。

 林本さんが机から取り出したのは、便箋用紙と封筒10枚だった。

 「これは長年のお客さんが東京の新宿から送ってくれたものす。どういう状況になっているのか、知らせてほしいというので、こっちは手紙を書こうにもペン一本もないというと、ボールペン数本と一緒に同封してくれました」という。

 なお、林本さんは毎朝、隣の小高いがけ上にある龍神さまにお祈りしていた。小さな祠のような龍神神宮は林本さんの家の2階からすぐ目の前だ。林本さんはいつも2階の窓を開けて、龍神さまに手を合わせていた。

 今回の田老地区を襲った津波は、龍神さまを祭った階段のトップまで波は押し寄せていた。神社というより祠に近い小さな龍神神社は残っていた。

 田老地区には竜神神社のほか、2つの古い神社がある。八幡神社に日枝神社がそれだ。いずれも今回の津波に襲われることはなく残った。

 昔の人は最悪を想定して、神社を建てた可能性が高い。人が住む家屋は低地に建てたとしても、神の館である神社が津波でさらわれるようなら申し訳が立たないと、本気で思いそうした条件がそろっている土地に神社を建築したに違いなかった。

 田老地区の被災光景は、パキスタンで見た景観と反対だった。神社を境として山林地区は、青々とした山々が展開し、何十年、何百年前と変わらぬ平穏な風景そのものだった。

 だがそのすぐ下から海外線まで瓦礫の山で、地獄の形相を呈していた。パキスタンはある標高から上は一本の木もなく、ただ荒涼とした禿山が広がっているだけだ。5000メートルから7000メートル級の峰々が峨峨としてそびえるパキスタンでは、ある標高以下にならないと生物が根付くことは不可能だ。

 パキスタンでは緑の野に灰茶色の山がそびえているが、津波に襲われた田老地区はじめ三陸海岸一帯では、緑の山々に瓦礫の山と化した海岸線が展開していた。

 伝統的な知恵が息づいているのは神社だけではなかった。その知恵は老人たちが共有していた。

 今回、田老地区では老人が助かり、壮年世代が被害に遭遇したケースが目立った。明治三陸地震の津波の被害を肉親から聞いていたり昭和の津波を経験したりしていた老人は、地震があったら逃げるという習性が身についていたが、「万里の長城」とも言われた国内最大級の巨大な防潮堤があったがゆえに、壮年世代は津波がきても大丈夫との安心感から逃げなかったというのだ。だが津波は、灰色の厚い防潮堤をやすやすと乗り越え、海の守り神のはずだった「万里の長城」は役にたたなかった。

津波の尖兵となった防潮林

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国内最大級の防潮堤

 3・11からこれまでの間、多くの防災シンポが開催された。その中で必ず指摘される津波時の防災の基本は「グラッときたら逃げるに尽きる」という。

 地震の揺れを感じたり緊急地震速報が出た時、海岸や海そばの河川周辺にいたら、津波警報と思って直ちに高台に避難することだ。津波や洪水は「早期避難に勝る対策無し」「津波や洪水は逃げるが勝ち」だ。小さな揺れだからといって油断してはいけない。明治時代の三陸地震津波の時は「震度3」だったが、その30分後に大津波が襲ってきて2万人以上が犠牲になっている。

 田老の老人たちは、避難する時、大声で「津波が来るぞ、早く逃げろ」と大声を上げながら素早く逃げた。群集心理が働き、人は誰かが逃げると、つられて逃げる。その声が「津波警報」となり、一声かけられることで助かった命があったことは間違いがない。

 なお田老での被災を増幅させた問題点のひとつが、防潮林が根こそぎ持っていかれたことだった。田老の沿岸を守っていた防潮林が津波にさらわれ、町を襲ってしまったのだ。町は津波の尖兵となった松によって、家々がなぎ倒されていったのだ。実際、松がなくても町は津波に飲まれたことは間違いがない。だが、その津波からの守り手として期待された防潮林が被害を増幅させたのだ。少し残った防潮林を歩くと、根本からぽっきり折れた松や傷跡だらけの幹が散見され、猛威をふるった津波のパワーが理解できる。