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ペマ・ギャルポのアジア最前線

有楽町で会う元インド義勇軍兵士

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V・C・リンガム氏

 紳士と言うが、私はある人物をジェントルマンとして憧れの眼差しで見てきた。言葉は丁寧でソフト。清潔感があって着こなし上手。初めてお目にかかった頃彼は70代で、常に背中がまっすぐ伸びて、どことなく軍人のような雰囲気も持った人物だった。

 私の記憶が正しければ、彼はほぼ毎日同じ時間、同じ場所、同じ席、同じグループの人達と食事を取り会話を楽しんでいる。共通語は英語とたまに日本語も聞こえてくる。同席者達も出身国がまちまちで、英語の発音も多国籍的である。その中でも私の憧れの人は百歳近くなり、立ったり座ったりする時や、歩く姿などに多少の変化があるもののジェントルマンぶりは全く変わらない。

 この人物の名前はV・C・リンガム。リンガムさんはインド人である。1935年に21歳で日本の土を踏んだ。以来、戦中戦後を通して日本に住みついて、この長い歳月を経て現在の安定した生活を勝ち取った。彼は「自分も一生懸命努力したが、日本のジェントルマンは口数少ないが存在感がある。そのテーブルに女性が現れることもしばしばあるが、男性達は席を立って挨拶し、レディとして歓待する。私のジェントルマンは今でいう環境も良かった」と言う。日本が大好きだが帰化はしなかった。「選挙で一票投じる権利の有無以外、インド人のままで何の不自由も無いから、自分の名前を変える必然性、日本国籍を取得する必要性は特に感じなった」と言う。

 日本女性についても極めて肯定的で、長い充実した人生の中で3度結婚し、3人とも日本人女性である。日本人女性以外と恋愛する機会も無かったと言う。彼は「日本はいい国だよ」と言う。

 若い時はスポーツマンだった。テニス、ホッケー、バドミントンなどやって身体を鍛え、戦後は商社を営んで成功し、後に不動産業に転向。現在は別荘も含む5件の物件の家賃収入で不自由のない生活をしている。特定の宗教の熱心な信者ではなく「神の存在も運命も信じるが、神は外に存在するのでは無く私自身の中に内在し、そして運命も自分の努力に相対すると思う」と言い、従ってインド人としては例外的に「私には食事にもタブーは無い。何でも美味しく頂く。宗教、信条、好みは個々の問題であり、これが正しい、あれをすべきだ、などと他によって強制されるべきものではない。このことを考慮すれば愚かな争いごともなくなるでしょう」と人生の先輩として言う。

 このジェントルマンが通い続ける場所は、有楽町駅日比谷口そばの電気ビル20階にある財団法人外国人特派員協会である。マッカーサー元帥の日本占領時に発足した名門の記者クラブであり、多くの在日外国人にとって有難い国際交流の場でもある。国際色豊かでスタッフも外国語に堪能であるのみならず、常に笑顔で常連から気難し屋の会員にも対応できる人材がそろっている場所でもある。

 最近、運営上の必然性から会員の間口を広げすぎたからかもしれないが、たまにスタッフを困らせる人もいる。だが一度も誰とも喧嘩をしたことのないリンガムさんは、スタッフ達にも人気があり大事にされているように思う。

 私が彼に憧れとある種の尊敬を抱いている本当の理由は、彼が青春時代にインド独立のために戦い、ビハリ・ボースの秘書を5年務めたことにある。彼はやはり祖国のために戦っていた私に親切にしてくれた。

 20年ほど前にリンガムさんは、私を彼のビルにある自身の事務所に招き、ビルの管理を手伝うという名目で事務所を無料で提供すると言って下さった。

 20年前というと、日本の家賃がどんどん上がっている時で、彼は私を応援するつもりで言ってくれたことを感じた。大変嬉しかったがその時は辞退した。彼との関係を長期的に大事にしたかったからである。

 私達は2度くらいしかゆっくり話したことがない。だが何かお互い気持ちが通じあっている。私は彼がクラブのレストランを出入りするたびに席を立ち、挨拶をしてきた。

 十数年前に別の雑誌のためリンガムさんに長いインタビューをした。その時も今回も、リンガムさんは「戦中もそうだったが、今も日本人はインドに一応の関心は持っているが真剣ではない。貴方はどう思いますか。そう思いませんか?」と逆に聞かれたものだった。

 二十数年前にリンガムさんからインド人青年達の日本における独立運動の話を聞いて、私は自分自身の活動とオーバーラップしているような気がした。

 リンガムさんは、インド独立運動の最も先頭に立っていた国民的英雄チャンドラ・ボースや、当時の日本国首相東条英機にも直に会っている。杉並区にあるニタジー(チャンドラ・ボースの愛称で指導者という意味)の位牌を祭っているお寺には、今も最低年一回お参りをしている。

 しかし、彼はこれらの歴史的人物についてあまり語りたがらない。ただ、以前のインタビューで「東条首相はインドに関心を持ち極めて友好的であった」とか、チャンドラ・ボースに関しては「私の記憶が正確さを欠いているかも知れないが、いい意味で雲の上の人で、人を惹きつけるパワーの持ち主であった」と話してくれたことがあった。

 彼はインド義勇軍の一員として日本軍と共にマレーシアやビルマに行ったが、その時は「日本の軍人との人間関係がうまく行かず、日本へ返された」と語ってくれた。彼の複雑な気持ちは、そういうところにも理由があるのだろうと察した。

 しかしビハリ・ボースの話になると、リンガムさんは「彼は頭の良い人でした。日本語も上手でした。彼は日本中を回ってインドへの支援を訴えた。我々はインド人10名ほどでよく中村さん( 新宿中村屋の社長) の家に集まって活動の展開を議論した。日本人は関心( 同情) はしてくれたけど結局、本気にはなってくれなかった」と言っていた。

 当時、英国は必死になってインド独立派を妨害していたことなどを考えると、当時の彼らの苦労は私には良く理解できた。

 彼は戦場から日本に帰ってから一時、東大に通ったが中退した。NHKのアナウンサーに転じ海外向けの日本のニュースを報道した。日本は敗戦した。インドは英国から独立した。彼を含むインド人独立運動家で日本と協力関係にあった人達は、占領軍からの厳しい仕打ちを覚悟していたが、何のお咎めも無かったと言う。その後、彼らの多くは独立した祖国には帰らず、日本で経済活動し成功した。

 来年、日本とインドは国交60周年を大々的に祝う予定になっている。21世紀に向けて両国は「戦略的グローバル・パートナー」として、経済のみならず政治、外交、防衛など幅広い分野で未来へ向けて羽ばたこうとしている。

 日本とインドがこの新しい関係を構築するに当たり、私はリンガムさんのような多く語らずとも両国を愛し青春を捧げた人達がいることを忘れてはならないと思う。激動の時代の中で、自分の信念を貫き、祖国と正義のために戦い、その祖国は独立したものの命運を共にするはずだった日本は敗戦した。その結果、彼のような人々は歴史の隅に追いやられ、今は時代を見守りながら静かに暮らしている。

 リンガムさんのような方を模範にして、私も、自分の信念に従い頑張って生きたいと思う。懸命に生き、その運命を受け入れ、自分を見失うことなく人生を生きたい。健康にも注意し、少しお洒落も身に着け、リンガムさんのような魅力的なジェントルマンになりたいと思うのだ。

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