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政治家と病「池田勇人」

医者も匙を投げた「落葉性天疱瘡」

田舎では「らい病」扱いも

 昭和5年9月10日の朝、池田勇人は「どうも手足がむずがゆい。昨夜、虫にでも食われたのかもしれない。ちょっと見てくれないか」と妻の直子に言った。

 見るとひざの辺りに、小豆ほどの小さな水ぶくれがあった。

 直子は「あなたが子どもみたいだから、子どものかかる水疱瘡にかかったのよ」と笑ったと、伊藤昌哉が書いた『池田勇人』には出ている。

 これが結局、全身に広がって手がつけられなくなった。水ぶくれは膨れるだけ膨れるとやがて潰れ、次に出血、そして瘡蓋となり、新たに水ぶくれを生むという輪廻を繰り返した。最も池田を苦しめたのは、その痛痒さのために夜もろくろく寝付けないことだった。

 拷問の中でも、寝ようとすると水をかけて眠らせない仕打ちは、最もつらい拷問だとされるが、全身を包帯で巻かれ、身の毛のよだつような皮膚病以上に、ひと時の安眠も許されない不眠の病は、どれだけ池田の心を蝕んだかもしれなかった。

 池田は一時間とはいわないまでも30分ほどだけでも、深い眠りの谷に落ちることさえできればとどれほど願ったことか分からない。眠りから覚めて再びつらい病の拷問が待ち受けていようと、すべてを忘却の彼方に押しやれる一瞬の安眠さえあれば、池田はいつ果てるとも分からない療養生活に耐えられると思った。

 結局、医者が下した診断は「落葉性天疱瘡」だった。不治の病に似た難病だった。

笑って始まった病が地獄の攻め具に

 医者は「気長な養生」を薦めた。医者とすれば、手の施しようがなく、いわば匙を投げたに等しい逃げの言葉だった。笑って始まった病は、いつの間にか地獄の攻め具に変わっていた。

 療養生活は妻の直子の手ひとつにかかっていた。深窓の令嬢として育ちながらも、早くから両親をなくした直子は不安や心配を持って行き場のない身の上だった。今は一家の大黒柱である夫を、一身に引き受けてその杖となり、不治の病と闘わねばならなかった。直子は池田の不眠がそのまま伝染したかのように、やがて眠れなくなった。

 家族の誰かが欝病にかかると、最も親しい家族も欝にかかるケースが散見される。池田の場合も、終末的な病にかかったゆえの絶望感から鬱を発症し、それが最愛の妻・直子に伝染していったケースが考えられる。

 ともあれ犠牲の燔祭(ハンサイ)になったのは直子だった。

 睡眠不足と心労でとことん、追い込まれた直子は、睡眠薬を常用するようになった。強制的にでも眠りの床をとらなければ、翌日の朝は動けなくなるのだ。そうなると池田の介護どころではなくなる。

 直子は責任感が人一倍強かった。

 しかし、それがあだとなった。「10年、15年先には必ず全快します。私の力で全快させてみせます」と池田を励まし続けた直子は、睡眠薬の落とし穴にはまってしまったのだ。

 時に苛立ちから癇癪をおこす池田を慰めながら、看病に努めた直子は昭和7年3月25日、ついに力尽き、狭心症で急逝した。

 一人残された池田は、天を仰いで泣いた。一人、病の床に残されたことが悲しかった訳ではなかった。池田丸という泥舟に乗りあわせ、ぼろぼろになりながら、逃げ出すこともせず、全身全霊をこめて船に入ってくる水をかき出し続けた直子が不憫でならなかったのだ。池田は直子が自分の人身御供になったとさえ思った。

人生のどん底で馬鹿正直者に

愚直さが総理の椅子呼び込む

 池田は直子の追悼集『忍ぶ草』を上程している。その扉に「医薬の療法なく、ほとんど絶望と診断された私を、一年有半、寝食を忘れて死の直前まで看護し励ましてくれた直子の貞節と忍耐強さには敬服の外ない」と書いた。

らい病扱いされた池田

 直子が急逝したことで、池田の看病は広島の母、梅子の手に移った。

 池田が東京から広島の実家に帰る際、ミイラのように全身を白いガーゼで包み、白い手袋と頭には黒い頭巾をかぶっていた。「広島の原爆投下の後で見た患者よりひどい姿だった」と義理の姉喜美恵は語っている。

 後に全快した池田は通産大臣に就任し、昭和34年12月4日、言論界主催の還暦祝いで贈られた赤いちゃんちゃんこと赤い帽子をかぶって参加している。療養のため黒い頭巾をかぶって実家に帰った当時、まさか還暦まで生き延びて赤い帽子をかぶるとは思いもよらなかった。

 療養生活は、光の見えない暗いトンネルの中にいたような時代だったが、将来の姿がもし分かっていたなら、どれほど頑張れただろうにと池田は述懐している。

 さて、話は広島の実家での療養生活にもどる。

 近隣の人々も「池田のぼんぼんは腐っとる」といって、らい病扱いされた。いくら地方の名士であっても、人の口に戸は立てられるものではない。うわさは更なるうわさを呼び込み、拡散していった。

 こうした口さがない風評が飛び交う〝暴風雨〟の中で、わが子に傘を差し続けたのが母梅子だった。

 梅子は、池田の妻だった直子同様、「一途の一本道」を走り続けた。とりわけ熱心だったのは、神仏への祈願だった。梅子が深く帰依していた石鎚権現をはじめ、あらゆる神仏に病気全快を祈念する勢信心が始まった。姉の君代は水垢離をとり、甥たちも裸足でお百度参りした。池田も母に連れられて、四国でお遍路もやっている。今でも、この時、池田が納めたお札が残っている番所がある。

息子が直れば全財産失っても

 梅子は病気の池田を引き取り、直子に代わり息子の守護神となる決心をした。息子の病が治るのなら、全財産を失ってもいいとさえ思った。だから交代で息子の面倒を見られるように、大勢のお世話係をつけた。梅子が一番心配したのは、池田が人生を失望し自ら命を絶つことだった。大勢のお世話係は、そうした見張り役でもあった。また、闘病生活が少しでも和むように、芸人を呼んでお祭りのようなこともした。

 池田は発作が起きる度に転げ回りながらも、「死んでたまるか」と唇をかんだ。体はぼろぼろだけれども、まだ気力だけは保っていた。滅多打ちにされたボクサーが気力だけでかろうじて立っているようなものだった。最後の一打でマットに沈むようなぎりぎりの攻防が続いた。

 だが、水ぶくれとカサブタと血膿は、首の上部でピタリと止まっていた。池田家あげての勢信心を天が覚えたのかどうかは分からない。ともかく最後の一線で、池田はよく持ちこたえた。

 症状がさらに上昇して顔面に現れたり、舌の上に出現したら死を意味していた。

愚直なまでの正直者へ

 池田は死の一歩手前で生きることを許された。死の崖っぷちに立ち、一度、暗黒の地獄をのぞきこんだ人間の人生観は変わる。

 池田はどう変わったのか。それは「裸で生まれた人間は、遅かれ早かれ、いずれ裸で帰っていく」といった達観だった。だから池田は、虚飾で人生を飾ることを嫌った。何より現実をそのまま受け入れ、愚直なまでに嘘をつくことはなく正直を貫いた。

 池田に仕えた宮沢喜一は後「あなたの正直は、並の正直とは違う」と述べている。池田は難病の療養時代、嘘は一切つかないと神仏に誓ったのかもしれない。人は誰しも、ちょっとした利益や見栄を張るとか体裁を保つため、嘘をつくものだ。「私は嘘は申しません」というのは、通常、それ自体が嘘だ。

 だが、新総理に就任した池田が所得倍増政策を掲げて述べた「私は嘘は申しません」とは、真心からの発言だった。

 池田は生涯、事実を包み隠さず正直に話した。そこには駆け引きやはったりもなかった。

 池田の周りに人が集まったのも、そうした人徳があったためと思われる。

 1960年7月の総裁選の際、吉田は「こういう時代の総裁には正直者を先にしたほうがいい」と語った。

 岸信介の実弟であり、大蔵大臣だった佐藤栄作が池田支持に回った背景には、この吉田の言葉があったとされる。神仏に誓った正直者に用意されていた椅子は、総理の椅子だった。

後妻との子どもに先妻の名

 なお池田は直子を亡くした後、ほぼ回復不可能と思われた難病から奇跡的な生還を遂げた後、いつも看病してくれていた娘である満枝と結婚した。そして満枝との間に生まれた子どもの名を直子とつけた。後妻との間に生まれた子どもに、先妻の名をつけたのだ。満枝が複雑な思いであったことは想像に難くないが、池田は先妻直子を命の恩人だと思っていた。自分に代わって召命されたとも思っていた。いわば自分と満枝との新しい家庭を、天から見守っていてくれる守護神とも見ていた。

 その愚直さが、名前を直子にさせた。満枝も池田と同じ愚直さを共有していた。直子の亡くなった日には必ず墓参りを欠かさなかった。一年に一度ではない。毎月、その日には必ず墓に赴き、花を供え線香を上げて手を合わせた。満枝も池田同様、目に見えない内的な世界で直子と一緒に暮らしていたのだ。

 満枝は後日、「命日になると朝から落ち着かなくてね」と述懐している。

京大出の赤キップ組

 池田は病気退職の大蔵省出戻りだった。同期はとっくに課長になり局長にもなっていた。そのうえ池田は、「京大出の赤キップ組」でもあった。

 だから一高、東大出のエリート秀才グループから外れていて、派閥の流れにも乗っていなかった。どうもがいてもこの袋小路から抜けられそうになかった。

 「省内で重要会議があっても、全然、俺を呼んでくれない。いつもぽつんと取り残される。こん畜生と思った」と後、新聞記者上がりで池田の秘書になった伊藤昌哉に本音を漏らしている。

 だが、人生すべて塞翁が馬だ。戦後のパージで、主だった重職にある人物は、ことごとく公職から追放された。しんがりにいた池田は、それがゆえに先頭に立つというどんでん返しのドラマが始まったのだ。こうなると苦労人の池田は、どんどんと頭角を現していくことになる。そして赤キップ組だった池田が、手にしたのが総理のキップだった。

 総理になった池田は欧州外遊の時、ローマ法王と会い、「私はキリスト教について知っているのは『苦しむものは幸いなり。神を知ることを得ればなり』という教えしか知りません」と語った。法王は「それこそキリスト教の中でも最も重要なものの一つです」と即答したという。

 だが聖書の中には実はこうした文言はない。「心の貧しい人々は、幸いである。天国は彼らのものだからである」といった山上の垂訓(マタイの福音書5章3節~12節)と似ているが、この文言はない。

 池田は暗黒の絶望的な闘病生活で、人間の力や知恵をこえた何者かと出会っていたのかもしれない。その確信は、神を信仰する西洋人のバイブルに対する重みと同程度だったという解釈も成り立つ。法王の言葉が、儀礼的なものではなく、池田の根源的悟りを受け止めていた上でのものであれば、それはそれですごいことなのだが、残念ながらその資料はない。

 辛酸を舐めた池田は、政敵をも抱擁する器があった。1960年10月12日、東京日比谷公会堂で社会党委員長だった淺沼稻次郎が17歳の山口二矢に刺殺され、池田は国会で社会党議員も泣かせる追悼演説を行った。

 演説文は伊藤昌哉が準備したものだが、「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」などと安アパート住まいの大衆政治家だった浅沼を偲び、「目的のために手段を選ばぬ風潮を今後絶対に許さぬ」と誓った。それを淺沼のみたまに供うる「唯一の玉ぐし」としたのだ。

 生死の境界線まで追いやられた池田は、思想と道筋こそ違うが、大衆の悲哀を己の哀しみとする浅沼の根底部分には共感する部分は少なくなかった。

 ともあれ時は、大またで過ぎていった。昭和39年、自民党総裁選挙で池田が三選された後、池田は秘書官たちと食事を取った。この時、寒天が出たが、池田は「これはのどをつるりと滑って気持ちがいい」と言った。誰もが気にも留めなかったが、一人の秘書官だけは、首をかしげおかしいと感じたという。

 首をかしげた秘書官の直感は当たっていた。池田は喉頭ガンだった。妻の満枝は、築地のガンセンターに見舞いに行くとき、帰りは骨になった池田を持ち帰らないといけないかと危惧したという。

 結局、池田は昭和40年7月29日に東大付属病院に再入院し、8月13日に死去した。盆が始まろうとしている時、「もうお仕事は十分でしょう」といって直子が天国から呼びに来たのかもしれない。

 参考文献 「危機の宰相」沢木耕太郎著、魁星出版/「国民宰相列伝21 池田勇人」伊藤昌哉著、時事通信社/「池田勇人その生と死」伊藤昌哉著、至誠堂/「随筆池田勇人」林房雄著、サンケイ新聞社/「宰相吉田茂」高坂正堯著、中央公論社/第036回国会本会議第2号議事録

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