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放射線パニックを煽るメディア

誤解多い低線量被曝

正しい情報発信のシステム必要

 「3・11」による原発事故以来、 福島県産の農産物が売れなくなったり、避難先の学校で子供がいじめに遭うなど、放射線をめぐる風評被害が広がっている。9月中旬、世界から専門家が福島に集まって、放射線の健康リスクについての正しい情報を発信しようという国際会議「放射線と健康リスク」(日本財団主催)が開かれた。会議の内容を中心に、原発事故の健康への影響と風評を払しょくするための課題について報告する。


福島で健康リスクの国際会議

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14カ国から専門家30人が集まった

 「我々の研究所で電話相談を行ったところ、8月末までに、1200件以上の相談があった。『西日本に移住すべきか』『中絶すべきか』と言ったものから、深刻なケースになると『医師から、中絶を勧められた』という相談もあった」

 こう語ったのは、放射線医学総合研究所放射線防護研究センター長の酒井一夫氏だ。9月11、12の両日、福島県立医科大学講堂に、世界14カ国から集まった放射線医療や放射線防護の専門家約30人をはじめとした多くの聴衆を前に、福島県で「放射線恐怖症」が広がっている実情を訴えたのだ。

広がる過剰恐怖

 東日本大震災では、津波で死者・行方不明者約2万人という未曾有の被害を出したにもかかわらず、わずかな食料を分け合って苦境を脱するなど、パニックに陥らなかった日本人の礼節と冷静さは海外から称賛された。しかし、1986年、旧ソ連で起きたチェルノブイリ原発事故で、ヨーロッパの人々が放射能の恐怖に震えたように、いかに我慢強い東北人といえども、目に見えない放射線に対しては過剰とも言える恐怖が広がっている。

 酒井氏の発言にもあるように、放射線に対する誤解から生じる恐怖は、一般市民だけでなく医師の間にも広がっているから厄介だ。

 その辺の事情をシンポジウムのセッション1「福島の現状」の座長を務めた前川和彦・東京大学名誉教授は「緊急の放射線対応については、医師、看護師、消防士一万人以上を訓練してきた。しかし、16県に原発がある中で、不幸にも福島は緊急医療システムで最も遅れていた」と言うのだ。基調講演を行った放射線医学総合研究所理事の明石真言氏も「放射線についての医療スタッフの知識が少ないのが問題。教育システムの改善が必要だ」と訴えた。

 医療の専門家でさえ、放射線についての知識が十分でないというのだから、一般市民が過剰反応を起こしても不思議ではない。放射線に対するパニックは、海外の専門家からも報告があった。韓国の漢陽大学原子力工学科教授のジャイキ・リー氏もその1人。福島原発事故後、韓国では放射線への恐怖から水、塩、マスクが売れ切れる一方で、日本の農産物は売れなくなったと言う。

 「韓国で予想された放射線は0・1ミリシーベルトしかなかったにもかかわらず、テレビだけではなくネット、ツイッター、フェイスブックなど、ありとあらゆるメディアが根拠のない情報を流し、市民の過剰反応を煽った。原発事故直後の風は、韓国とは反対の東向きだったが、もし逆に、風向きが韓国側であったなら、もっとひどいことになっていただろう」と指摘。その上で、「このような過剰反応の大半は、放射線リスクに対する誤解が原因となっている」として、放射線への過剰な不安が引き起こす「不当な損害」を防ぐための対策に、国際社会全体で取り組む必要があると訴えた。

 冒頭の酒井氏も、リー氏と同じように、福島だけでなく、日本全体に放射能恐怖症が広がる一因に、根拠もなく「(被曝によって)脳に異常が起きる」「奇形になる」などの見出しで、 扇情的に報道する週刊誌などのメディアがあると指摘。その結果、日本では放射線はがんの発症やがんによる死と結びつけられてイメージされているが、問題とすべきは放射線そのものではなく、「(被曝の)線量であることが分かれば、そのイメージも変わるのではないか」として、体系的なリスクコミュニケーションシステムの構築を呼びかけた。

 一方、海外の専門家からは、「(放射線への一般市民の過剰反応を)メディアだけの責任にしてはいけない。そのメディアに対する専門家の情報発信の在り方こそが問題で、そのことへの真摯な反省が必要だ」との声も上がった。「シーベルト」と言った耳慣れない単位を使うなど、難解な専門用語を羅列した専門家の説明は、一般人には理解が難しく、これが放射線に対する過剰反応の一因になっている面があることも確かだ。

低線量の被曝問題

 この問題を考える前に、放射線の健康リスクについて専門家の間で形成されているコンセンサスを見てみよう。放射線の健康リスクは科学的に不明確な部分が多く、これが混乱の元になっているとされるが、過去100年間の研究成果でかなりのことが明らかになっている。

 まず、積算で100ミリシーベルト以上の被曝では、がんの発症率が0・5%上がり、この確率は被曝量が多いほど高くなる。また、数百ミリシーベルトから数千ミリシーベルトの高線量を短期間に浴びると、脱毛や嘔吐といった急性の症低線量の被曝問題状が表れ、最終的には死亡にもつながる。

 こうしたことは国際的に認められており、論争となることはない。高線量の被曝は、福島原発事故では原発作業員以外の一般人には考えられないので、心配の必要はない。

 問題なのは、100ミリシーベルト以下の低線量の被曝が人間の健康にどのように影響するか、という点だ。実はこれまでのところ、何ミリシーベルトからがんの発症率が上がるのか、といった問題について、専門家でコンセンサスが得られるような科学的なデータがないことから、いくつかの説が唱えられ、それぞれが自分たちの主張を展開していることが混乱を生んでいるのだ。

 まず第1の説は、低線量でもがんの発症率は被曝量に応じて上がるというもの。もちろん、この場合でも発症率は0・5%よりも低くなる。第2の説は、低線量では健康被害は出ないというもの。人間は平均すると、自然界からの放射線を1年間で2・4ミリシーベルト浴びているが、場所によってはこれが10ミリシーベルトに達する人もいるのだ。この程度の線量で健康被害が出るのなら、その場所には住むことはできなくなるだろう。

 第3の説は、低線量でも内部被曝があれば、リスクは高まるというもの。そして第4の説は、低線量ではむしろ健康に良いという説。ラドン温泉治療がそのよい例だ。

 いずれの説にもその元となる研究はあるが、低線量の影響を科学的に解明するのは困難なことから、国際的なコンセンサスとなるほどの科学的なデータを提示するまでには至っていないのが現状だ。

飛行機乗務員の健康被害立証されず

 国際会議で、低線量の被曝に関する研究で興味深かったのは、ブルーメン大学(ドイツ)のハーヨ・ツェーブ氏の報告「航空乗組員の疫学的調査」だ。同氏によると、ヨーロッパから日本に飛行機でくると、約70マイクロシーベルト被曝すると言う。一般人はそうたびたび飛行機に乗るわけではないから、空を飛ぶ時の被曝リスクを心配する必要はないが、パイロットをはじめとした乗務員になると、そうはいかない。 

 飛行機乗務員の生涯被曝量は約80ミリシーベルトだが、 ツェーブ氏らがパイロット2万8千人、乗務員4万4千人を対象に調査したところ、放射線による健康被害は立証されなかったと言う。また、同氏は「宇宙飛行士の被曝は100ミリシーベルト以上になるだろうが、がんの発症率が高いという報告はない」とも指摘した。

 いずれにしても、最善は被曝しないことだ。この国際会議を共催した国際放射線防護委員会(ICRP)は最も厳しい基準を採用し、通常時の被曝量は「1ミリシーベルト以下」に抑えるように勧めている。これとて、「経済的及び社会的な考慮を行った上」でのことなのだ。

 どういうことかと言うと、たとえば、ある場所に住んでいると、自然界から放射線に加えて、1ミリシーベルトを超えて被曝するとする。子供の健康を心配する母親が引っ越しを考える場合、引っ越し先が排気ガスで汚染された大都会であったり、親子が離れ離れになったりすれば、被曝よりも引っ越しのほうが子供に悪い影響を与える危険が出てくる。それほど、低線量の被曝リスクは、あったとしても低いので総合的に判断することが重要なのである。

 ところが、ICRPの「1ミリシーベルト以下」を根拠に、それ以上の線量では健康を害するとする誤解が広がっている。福島原発事故後、それまで健康に良いと言われていたラドン温泉で閑古鳥が鳴くといった状況も生まれているのもその影響である。

「リスク」の概念の相違

 大分県立看護科学大学教授の甲斐倫明氏も指摘したことだが、専門家と一般人とは「リスク」の概念が違うということも混乱に拍車をかける一因にもなっている。一般人が「リスクはある」と聞けば、「危険」と判断してしまうが、専門家は「影響を受ける可能性」ぐらいの意味で使っている。

 論文の発表ではないのだから、一般的には「危険」と誤解されかねないということに、思いが至らないところが専門家の発想と言える。放射線の健康リスクについても、一般人がどう受け取るかという点に配慮した発言を行う必要があるだろう。

 リスクを取るか、取らないか、ということは当人の価値観に関わることでもある。原発事故で、福島は今、「フクシマ」となって世界的に知られているが、「放射能が怖い」と、県外に脱出する日本人がいるかと思えば、海外からわざわざフクシマにやってくる外国人もいる。

 2学期に入って、10か国52人の新米外国語指導助手(ALT)が福島県内の学校の教壇に立っている。ほとんどは母国の家族、友人が放射線の影響を心配していると言う。しかし、本人たちは「フクシマ」で教えることに誇りを持ち、「人が普通に生活しているのに、どうしてそんなに心配するのか」と不思議がる。少しの不安はあったにしろ、教壇に立つ喜びのほうが勝っているのだ。

 要するに、「リスク」という問題はその人の価値観、ライフスタイルと深く関わる問題で、これが日本ではなかなか理解されない。「被曝リスクがある」と言うと、少しでも放射性物質に触れたり、あるいは吸いこんでしまったりすると、がんを発病するなど健康を害すると短絡的に考える日本人が多いのである。

不安広がる子供への健康被害

 現在、最も不安が広がっているのは、子供の健康被害についてだ。1986年に起きたチェルノブイリの原発事故の影響で、甲状腺がんを発症した子供が6000人以上。そのうち、2005年までに十五人が死亡したと報告されている。これは、高濃度の放射性ヨウ素に汚染された牛乳などを飲んで、内部被曝した子供が多かったからと見られている。

 細胞の代謝や自律神経をコントロールする甲状腺ホルモンをつくる上で欠かせないヨウ素は、甲状腺に蓄積する性質がある。子供の場合、甲状腺が小さく、甲状腺がんになるリスクは大人の数倍になると考えられる。一方、40歳以上の大人では、そのリスクはほとんど見られないことが分かっている。

 子供たちの甲状腺の放射線影響は、県内で比較的高い線量が確認された地域で1000人以上の内部被曝を調査した結果、精密検査が必要なレベルの被曝はなかったことが分かっている。

 この問題で、国際疫学研究所(米国)のジョン・D・ボイス氏は、牛乳などを飲んで内部被曝した子供が多かったチェルノブイリと違って、福島で小児甲状腺がんが増えることはまずないと考えていいとの見解を示した上で、「福島県民の安心と健康管理のためには疫学調査を行う必要はあるが、そのような調査によって、慢性的な放射線被曝による有意な健康リスク情報が得られる可能性はほとんどない。なぜなら、これまでに推定された被曝線量があまりに低いから」と分析している。

 それでも、会場の小児科医からは「子どもを持つ母親に、『健康リスクは少ない』と説明してもなかなか納得してもらえない」「母親たちが求めるのは、健康リスクについての見解ではなく、安心なのです」と言った声が上がった。

 この問題については、広島大学原爆放射線医科学研究所長の神谷研二氏は「原発事故後、福島県内の保護者や教育関係者8000人以上に、放射線の健康リスクと防護策について講演して分かったことは、リスクを的確に伝えることがいかに難しいことか、ということだ。私たちは、いかにリスクコミュニケーションしたらいいか、ということも学ばなければならない」と自戒を込めて報告した。なぜなら、原発事故では実際の健康被害よりも、精神的影響や風評被害による社会的・経済的なダメージのほうが大きくなることが分かってきたからだ。

 会議は最後に、「放射線の知識を住民に適切に伝え、地域社会の健康管理を支援しくいくことが重要」とする提言を発表して閉幕した。現在、専門家や学者が放射線リスクについて発言する場合に忘れてはならないのは論理的、学問的に正しいというだけでなく、原発事故で苦しむ福島の人々の立場に立ち、福島の復興に役立つという視点なのだろう。そして、専門家がばらばらに発言するのではなく、科学的な知見に基づいて正しく情報発信することが必要で、そのための仕組みづくりという大きな課題が浮かび上がってくる。

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