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エコロジー経済学者・福岡克也氏に聞く

国際森林年

物欲中心から文明史的転換を図らないと人類は生残れない

 今年は国際森林年を迎えている。広大な緑の森林こそは、人類や哺乳類に不可欠な酸素を供給し、天然のダムとして水を貯め濾過してくれる偉大な自然そのものだ。経済成長ばかりが問われるような時代だが、「自然を壊して経済は成立しない」と生涯を通じて主張し続けているエコロジー経済学者の福岡克也氏に聞いた。

──2011年は国際森林年だ。

 そうだ。前回の森林年は1985年(昭和60年)だった。実は先回の国際森林年に、「緑の文明学会」を作った経緯がある。「平和と緑」を守ろうと訴えたのだ。東大元総長の茅誠司氏が会長を務め、私が事務局長になって全体を組織化して稼動させる立場だった。創立日は同年4月30日で、全国のマスコミが注目した経緯がある。

 私は東大農学部で林業、とりわけ森林から経済のことを勉強した。最初は無我夢中で、森林科学技術はどういうテクノロジーか研究した。その結果、人間というのは所詮、自然の力にはかなわないし、自然を壊しては経済も成り立たないことが分かった。

 原子力災害にしても酸性雨にしても、自然を犯している。約30年前、欧州に行き、フィンランドや英仏などの森林を調べて回ったことがある。フィンランドの湖は酸性雨に犯されていて、1970年代に既に魚も育たなくなっていた。

 その時、ヘルシンキ大学のノルテバ教授に「日本に帰ったら現代文明は危険だ、農薬を使わないでくれとみんなに言ってくれ」と託されたことがある。

 フィンランドの汚染は、酸性雨と農薬の問題だった。酸性雨は米国から2000㌔を飛んでくる。人類はこういう文明を反省することなしには、自然は回復しない。そういう意味で、物質文明から転換しないといけないというのが私の持論だ。

 創価学会は第3文明と言い、キリスト教にもいろいろな会派があるが、一生懸命に根を正さないと国が立ち直れない。新たな文明改革をしないといけない。仏教には妙法に帰るという思想があるが、これは宗派をこえた21世紀の課題だ。

 それから私は研究者として、緑の文明を啓蒙し、立正大学の博士課程に環境経済課程をつくった。日本の大学で初めてだった。東亜大学の通信制大学院や、早稲田大学理工学術院の環境総合研究センターなどで、顧問として継続して環境問題に取り組んでいる。

 一人になってもやり続けるつもりだ。

──今回の東日本大震災はどうとらえているのか。

 私は前から言っていることだが、地震とか避けられない災害だ。自然の力というのは人間を超越していることを知るべきだ。

 被災者には気の毒だとは思うが、被災した中学生が「天の試練は厳しいが、天をうらまない」と言った。まさにその通りで私自身が、太平洋戦争で直撃弾をうけ、天の厳しさをつくづく感じたことがある。

 今年の震災は、これでも分からないのかという駄目押しのような気さえする。お金、お金といって物質文明を中心とした科学も限界に達し、本当の意味で文明の転換をしないといけない。

 昔、科学技術会議の専門委員になったことがある。科学技術が工業開発を最適に誘導して、国民の福祉に役立つようにしていかないといけないという潮流があったが、これからの科学技術を考える上で、最後のご意見を伺いたいとなった。その時私は、当時の政権が何の疑いもなく高度成長に向かっている中、科学技術の言葉の中にエコロジーという観念が入っていないと指摘したことがある。

 座長は、東大の土木工学をやっていた公平な先生で、「今の発言は重要な発言で。科学技術政策にとり入れて、どのようにしていったらいいか考えたらいい」とコメントされたことがあった。

 自然災害は、次から次へと起きている。何回繰り返したら、気がつくのか。結局、気がついていない。私共の努力が足りないこともあるのだろうけど、死ぬまで言い続けないといけないのだが、このところトーンが下がったかなと思ってはいる。

──そもそも環境に、文明論的な視線を向けるようになった契機はどういうものだったのか。

 原点は1975年以降のリベラルな研究者・文化人の新しい文明を語る会にあった。草柳大蔵さんも「知の荒れ野に立たぬために」という本を書かれて、文明論の立場からおっしゃっていた。この中で実は草柳さんは、森林の問題を書いている。岡山藩に熊沢蕃山という人がいて、公も個人も森林を共有しないといけないし、共に守らないといけないということを書いた。

 山や川、森林というのは環境財、公共財であり、最後は経済で使える市場財だ。最適なエコロジー技術を施して、立派な収益をあげる。その利益の中から、一部を環境税じゃないが、山川草木を育てる資金にあてて、みんなが幸福になる土台を守り続ける財政政策をやらないといけない。

 私は当時、「エコロメイション」という言葉を作った。エコロジーというのを理念の問題としてうるさく言うのでなく、資源の利用がエコロジーの能力を超えた時にはぱっと止(や)める。その範囲内であればどんどんやる。それは原子力政策にもつながるものだ。限界をいかに超えないかが大事だ。科学技術の中に、エコロジーという思想がないから、いろいろ問題が起きてくる。

 自然が多く、特に森林に取り囲まれている地域では、人間と森林の共生の関係が成り立ち、そこではエコロジカルな文化が形成された。モンスーン的環境に恵まれたアジアにおいては、森林は安定した自然物質循環を支える源泉となり、人間は自然と一体の世界を作り出すことができた。

 特に、そこでは仏教の転生輪廻の思想にもあるように「山川草木悉皆成仏」という、人間も他の生物も、また非生物物質さえもみな平等であるという根本的な自然観が形成されてきた。経文に示された人間の森林における文化的位置づけは、まさしく平等、調和という生命感に包まれたものであり、自然と人間の本質的ロゴスを如実に示したものであると言える。

 自然破壊のリスクを最小限に抑え込むためには、少なくとも自然の能力を超えることのないエコロジー基準(生態系を維持する基準)に従い、自律的な規範をもたなくてはならない。例えば、生物種などのそれぞれについて、増殖量、成長量を超える採取は行わないといった基準を設け、ここで定められたエコロジー基準を供給限界としてエコバランスを考えるべきだ。

 こうした基準のもとで経済を営むというのは、経済至上主義の社会にあっては至難の業だ。だが、ここで文明の転換を図らなければ、物質文明は破滅の坂道を転げ落ちて行かざるを得ない運命にある。

 21世紀にかけて急速に森林がなくなった原因は、人口の増加や急速な経済成長などによる、人間の自然に対する過大な資源要求と、適正な自然の再生を考えない収奪の増大にあったことは他の資源とも同様だ。

 人間はエコバランスを崩すことにより森林がもつ生活力、生命力を超えて、森林を伐採し利用した誤りを知らなくてはいけない。森林は過度の収奪を行った後においては、自然の力で再生し、回復することが長期に及び、著しく難しい性質をもつのが難点だ。

 とりわけ熱帯雨林の林相は、複雑な層を成した形であり、経済的に比較的価値の高い材木は、最高層木を構成していることが多い。したがって、これらを伐採するということは、生態系に対する直接の打撃を与えることにもなる。熱帯雨林は五層構造となっており、高さ70㍍近い高木や亜高木、それに中低木層、潅木(かんぼく)(低木)層、さらに下草やシダ類といった林床の五つの層に分けられる。

 この構造下で一番高い木を伐採するということは、一番高い日傘部分をごっそり取り除く作業と同じで、その下に生息していた木や日光に弱い部分は弱ったり枯れてしまう。だから、一番高い木を伐採するということは、その部分だけでなく周辺部を含めた森に致命的な打撃を与え、残された森林の多くは二次林となり、豊かな熱帯雨林を形成していた元の五層構造は消滅してしまう。

 こうした木材伐採による森の修復には莫大な費用が必要となる。現在、生物種がどんどん失われて、生物多様性の問題が国際的な議論になっている。生物多様性の宝庫であり、地球の酸素の50%を供給してくれる「地球の肺」でもある熱帯雨林の存続は地球規模の課題となっている。

 現在がこうした乱世にあることを知り、理想の世界建設を求め続けることが大切だ。

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