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衆議院議員 中田宏氏に聞く

憲法改正で「天皇は元首」明確に、機構改革で首相公選制、道州制も

 衆議院議員から横浜市長になり再度、衆議院議員に返り咲いた中田宏氏は、大海原を泳ぎ渡って生を受けた故郷に帰ってきたサケにも似ている。地方行政の現場を踏んだ中田氏が、再び国政の場に戻って何を手がけるのか熱烈な中田支持者らの期待は高い。インタビューで中田氏は、憲法改正で「天皇陛下は元首」を明確にするとともに機構改革で道州制の導入と大領領制ではない国会発議型首相公選制を強調。さらに軍事増強を続ける中国に対し、法治とか人権、自由といった普遍的価値を共有できる国際的な枠組みを作り上げる重要性を説いた。


picture 【プロフィール】なかだ ひろし 1964年9月20日、横浜生まれ。青山学院大学経済学部卒業後、松下政経塾に入塾(第10期生)。横浜市長(2期)、日本創新党代表幹事、大阪市特別顧問等を歴任。日本維新の会所属の衆議院議員(通算4期)。著書に「政治家の殺し方」「改革者の真贋」「なせば成る―偏差値38からの挑戦」など多数。

──憲法96条改正については?

 日本維新の会の公約として憲法改正問題は96条から行うとはっきり明記している。

 元来、96条改正を打ち出したのは日本維新の会が最初だった。その意味では、憲法改正議論は日本維新の会がリードしている議論だ。

 96条の改正は、護憲だろうが改憲だろうが、憲法を自分たちのものとして考えられるかどうかの議論であり、何よりも国民に憲法への意思表明をしてもらい、国民の手に憲法を戻すということだ。

 今の憲法改正条項のままだと、まず政治家の3分の2が賛成しなければ改正できない。まずはこのハードルを一回はクリアしなければならないが、3分の1プラス1人が反対したら、憲法改正の発議そのものができないというのはおかしい。国民の7割や8割が憲法改正に賛意を持っていたとしても、発議すらできないというのは不条理だ。だから発議のハードルを下げ、その上で国民に判断を仰ぎましょうということだ。

 いわば、主権在民をはっきりさせる意味において重要なことだと私は思っている。

──そもそも憲法をどう変えていきたいのか。

 まず首相公選制や道州制などの統治機構。こういったことは憲法議論だと思っている。

 首相公選制は分かりやすいと思う。総理大臣は現在、衆参国会議員の投票によって選ばれることになっている。それを首相は国民の手で選ぶということになれば、憲法改正をしなければならなくなる。

 ただし、ここでいう首相公選制というのは当然、大領領制ではない。大統領制というのは間違っても日本ではあり得ない。目指すのは、国会発議型首相公選制とでもいうべきものだ。

 国会の中の一定数の推薦、もしくは一定数の会派、党派の中からの代表者を国民が最終的には選んでいく。これが首相公選制であって、国会議員以外の中から誰でも手を上げられるという人気投票型の首相公選制とは違う。

 この点は制度設計の問題だが、首相公選制の根幹の部分は憲法を改めないといけないので、憲法改正事案になる。

 首相公選制ということを憲法で位置付けるならば、天皇陛下が国民統合の象徴としての元首であるという位置付けも同時に、憲法改正の中で必要になってくる。そうでないと、大統領制と勘違いされかねない。

 それから、道州制は地方自治法改正でも行えるという意見があるが、私は憲法議論だと思っている。いま日本では、地方自治体の正式な扱いは地方公共団体となっていることに疑問を持たなければならない。

 地方公共団体と聞いても多くは違和感を持たないかもしれないが、これはおかしな表現だ。

 団体というと、スポーツ団体とかボランティア団体とかいろいろある。その意味で、数ある団体の一つというのが地方公共団体だ。少なくとも憲法上の扱いはこうなっている。

 これを道州制の導入によって地方が地方政府としてしっかり機能を果たすことで、国が国家として行うべきことに専念できるようにする体制が必要だ。

 国家が国家として行わなければならない課題は、外交に安全保障、さらにマクロ経済などがある。

 道州制というのは、単に都道府県を集合化したり合体化させた形でより広域的な地方公共団体を作ろうというのではない。地方公共団体ではなく、あくまで地方政府を作らなければならない。

 例えば、現在は国があっての税制で、地方公共団体には課税自主権がほとんどない。ところが、地方政府になれば、課税自主権をしっかりと持つことが必要となる。北海道であれば、ロシアとどう経済をやっていくのか。九州であれば、東南アジアを含めたアジア全体を見渡した上で、どういう税率を作れば大きな経済的活力を引き出すことができるのか考えるということ。これが地方政府のありようだ。

 これは憲法問題になる。その意味で、私は憲法議論の中でも最優先でやっていきたい。

─―米国など歴史的に州が独立したパワーを持っていた。それを統合させて合衆国とした経緯がある。歴史的経緯が日本とは違うが。

 まさに、国の成り立ちが違うからこそ自発的な議論でそのあり様を規定することが大事だ。他の国は参考にする程度で良いと思う。

 むしろ、他の国と比較して道州制にしようというのではなく、時代と比較して道州制にしないといけない。

 すなわち、百二十数年前の明治時代にどうやって都道府県が決まったかというと、基本的には藩制度を地理的に変更した形でできた。そのころは自転車もない、かごの時代だ。郵便もなく飛脚の時代だ。

 そのかごから、自転車、そして自動車に変わっていった。飛脚は郵便、電話、携帯電話、インターネットへと変わっていった。人の移動やコミュニケーションの範囲というのは、かつてと考えられないほど広がってきている。

 そういう時代と比較したときに、今のままの都道府県制度は日本の競争力を弱めている大きな原因そのものにもなっている。

 例えば、現在47都道府県があって、それらが競い合うように空港を作ったり港を作ったり、実に馬鹿馬鹿しい投資だ。そういう競争をすれば、コストが高くなって経済的なハンディを負い、結果として国家の弱体化を招く。

 こうした意味で、地方制度の方が日本国民よりも早く高齢化してしまった。

 都市間競争で考えると、例えば、横浜と大阪はいま競っている場合ではない。関西はいったいどこと競うのかといったら、おそらくは上海や香港と競っていく。東京を中心とした首都圏は、ニューヨークやパリと競っていくべきだ。

 こうした思考回路が重要になってくる。

──道州制によって経済的活力を付与していくパワーの源泉というのは、どこにあるのか?

 「ニアイズベター」(近い方が良い)と言う言葉がある。霞ヶ関に陳情しに来るというのでなくて、それぞれの道州内で物事が済んでいくようにしないといけない。

 考えて見れば一目瞭然だが、霞ヶ関がなぜ北海道から九州まで、同一政策でないといけないのか。北海道から沖縄まで、それぞれの市町村が霞が関に陳情に来ている姿は、どう考えても妙な話だ。そもそも霞ヶ関の役人がいくら頭がよくても、想像がつかない小さな町や村の陳情まで引き受けていることはおかしい。

 また、地方政府といっても、政治的機能や経済的機能の中枢は別々ということはあると思う。

 例えば九州で、何もすべて福岡に集中する必要はない。経済都市として福岡が中心であれば、政治的な拠点、あるいは首都は熊本にあってもいい。

 いずれにしても「ニアイズベター」で、九州における町や村の問題解決というのは九州の内で解決していく。

 同じような小さな町や村の解決策を探っても、北海道の小さな町と九州のそれとは、人口や面積は似ていても性質は全く違う。九州内の町や村というくくりの方が、まだ同質性が高い。その中で九州という自己の問題を解決していく。

 そこで、重要なのは道州間における格差問題で、現在は国が統合的にやっているから小さなところまでみんな平等に扱われているみたいな幻想があるが、実はそうではない。ただし、道州制になっても財政調整はやる。稼げる道州、例えば、東京や関西州だけが税収があって、それ以外は入りませんという風にはしない。水平調整はするというのが前提だ。

──水平調整役は国が関与することになるのか。

 日本国という政府が絡んでしまえば、そこに中央集権の悪弊が出てくることになる。国がやると、そこに恣意的なものが入ってくるからだ。だから、水平調整はあくまで道州間でやる。そこには独立した機関とルールを作って、あくまで機械的な事務作業でやる。

──中田氏の著書『改革者の真贋』(PHP研究所)の中に、台湾と中国の問題が出て、台湾ともつきあう重要性が書かれている。中国は平和的台頭ではなく、南シナ海や尖閣問題に見られるように強圧的な姿勢が目立つが、日本は中国とどう立ち向かうべきなのか。

 中国の問題は日本だけでなく、中国と接している近隣諸国もみな直面している。すなわち、やがてもっと多くの国々が直面する問題でもある。中国の経済力がどんどん大きくなり、そして中国が自らの権益や存在感を世界に対して大きくすればするほど、世界の他の国々も矛盾やトラブルに遭遇するようになる。

 経済を例にみても、果たして中国の経済が、世界経済を今までリードしてきた先進諸国といわれる国々とイコールフッティングかというと、今や逆差別的な状態にもなりつつある。

 例えばどんなに貿易収支が不均衡であっても、為替レートは変動せず統制されている。株式市場という資本主義の形態が持ち込まれてはいたとしても、そこに企業のしっかりした情報開示がない現状では、投資家としては十分な投資ができない。これらの問題は、世界が既に直面している問題だ。

 また、中国が第一列島線から第二列島味で、数ある団体の一つというのが地方公共団体だ。少なくとも憲法上の扱いはこうなっている。

 これを道州制の導入によって地方が地方政府としてしっかり機能を果たすことで、国が国家として行うべきことに専念できるようにする体制が必要だ。

 国家が国家として行わなければならない課題は、外交に安全保障、さらにマクロ経済などがある。

 道州制というのは、単に都道府県を集合化したり合体化させた形でより広域的な地方公共団体を作ろうというのではない。地方公共団体ではなく、あくまで地方政府を作らなければならない。

 例えば、現在は国があっての税制で、地方公共団体には課税自主権がほとんどない。ところが、地方政府になれば、課税自主権をしっかりと持つことが必要となる。北海道であれば、ロシアとどう経済をやっていくのか。九州であれば、東南アジアを含めたアジア全体を見渡した上で、どういう税率を作れば大きな経済的活力を引き出すことができるのか考えるということ。これが地方政府のありようだ。

 これは憲法問題になる。その意味で、私は憲法議論の中でも最優先でやっていきたい。

──米国など歴史的に州が独立したパワーを持っていた。それを統合させて合衆国とした経緯がある。歴史的経緯が日本とは違うが。

 まさに、国の成り立ちが違うからこそ自発的な議論でそのあり様を規定することが大事だ。他の国は参考にする程度で良いと思う。

 むしろ、他の国と比較して道州制にしようというのではなく、時代と比較して道州制にしないといけない。

 すなわち、百二十数年前の明治時代にどうやって都道府県が決まったかというと、基本的には藩制度を地理的に変更した形でできた。そのころは自転車もない、かごの時代だ。郵便もなく飛脚の時代だ。

 そのかごから、自転車、そして自動車に変わっていった。飛脚は郵便、電話、携帯電話、インターネットへと変わっていった。人の移動やコミュニケーションの範囲というのは、かつてと考えられないほど広がってきている。

 そういう時代と比較したときに、今のままの都道府県制度は日本の競争力を弱めている大きな原因そのものにもなっている。

 例えば、現在47都道府県があって、それらが競い合うように空港を作ったり港を作ったり、実に馬鹿馬鹿しい投資だ。そういう競争をすれば、コストが高くなって経済的なハンディを負い、結果として国家の弱体化を招く。

 こうした意味で、地方制度の方が日本国民よりも早く高齢化してしまった。

 都市間競争で考えると、例えば、横浜と大阪はいま競っている場合ではない。関西はいったいどこと競うのかといったら、おそらくは上海や香港と競っていく。東京を中心とした首都圏は、ニューヨークやパリと競っていくべきだ。

 こうした思考回路が重要になってくる。

──道州制によって経済的活力を付与していくパワーの源泉というのは、どこにあるのか?

 「ニアイズベター」(近い方が良い)と言う言葉がある。霞ヶ関に陳情しに来るというのでなくて、それぞれの道州内で物事が済んでいくようにしないといけない。

 考えて見れば一目瞭然だが、霞ヶ関がなぜ北海道から九州まで、同一政策でないといけないのか。北海道から沖縄まで、それぞれの市町村が霞が関に陳情に来ている姿は、どう考えても妙な話だ。そもそも霞ヶ関の役人がいくら頭がよくても、想像がつかない小さな町や村の陳情まで引き受けていることはおかしい。

 また、地方政府といっても、政治的機能や経済的機能の中枢は別々ということはあると思う。

 例えば九州で、何もすべて福岡に集中する必要はない。経済都市として福岡が中心であれば、政治的な拠点、あるいは首都は熊本にあってもいい。

 いずれにしても「ニアイズベター」で、九州における町や村の問題解決というのは九州の内で解決していく。

 同じような小さな町や村の解決策を探っても、北海道の小さな町と九州のそれとは、人口や面積は似ていても性質は全く違う。九州内の町や村というくくりの方が、まだ同質性が高い。その中で九州という自己の問題を解決していく。

 そこで、重要なのは道州間における格差問題で、現在は国が統合的にやっているから小さなところまでみんな平等に扱われているみたいな幻想があるが、実はそうではない。ただし、道州制になっても財政調整はやる。稼げる道州、例えば、東京や関西州だけが税収があって、それ以外は入りませんという風にはしない。水平調整はするというのが前提だ。

──水平調整役は国が関与することになるのか。

 日本国という政府が絡んでしまえば、そこに中央集権の悪弊が出てくることになる。国がやると、そこに恣意的なものが入ってくるからだ。だから、水平調整はあくまで道州間でやる。そこには独立した機関とルールを作って、あくまで機械的な事務作業でやる。 ──中田氏の著書『改革者の真贋』(PHP研究所)の中に、台湾と中国の問題が出て、台湾ともつきあう重要性が書かれている。中国は平和的台頭ではなく、南シナ海や尖閣問題に見られるように強圧的な姿勢が目立つが、日本は中国とどう立ち向かうべきなのか。

 中国の問題は日本だけでなく、中国と接している近隣諸国もみな直面している。すなわち、やがてもっと多くの国々が直面する問題でもある。中国の経済力がどんどん大きくなり、そして中国が自らの権益や存在感を世界に対して大きくすればするほど、世界の他の国々も矛盾やトラブルに遭遇するようになる。

 経済を例にみても、果たして中国の経済が、世界経済を今までリードしてきた先進諸国といわれる国々とイコールフッティングかというと、今や逆差別的な状態にもなりつつある。

 例えばどんなに貿易収支が不均衡であっても、為替レートは変動せず統制されている。株式市場という資本主義の形態が持ち込まれてはいたとしても、そこに企業のしっかりした情報開示がない現状では、投資家としては十分な投資ができない。これらの問題は、世界が既に直面している問題だ。

 また、中国が第一列島線から第二列島線へと張り出してくれば、今度は米国や豪州もより一層、中国と向き合わないといけなくなる。

 その意味で、中国が国際社会の中で責任を果たすべきことを伝えていくことが重要だと思う。

 国際法の中で経済を営み、領土問題も対応すること、このようなことを中国に求めていくことが重要となる。今までは中国は発展途上国だという認識の中で、このようなことはまだ適用される時期ではないと言い続けてきたけれども、明らかに成長して体が大きくなっているわけだから、そこはしっかり国際社会として対応していく必要がある。それをリードしていくのが日本だ。日本と中国の二国間関係というとらえ方では小さい。

──中国はあれだけ大きくなって、軍事力の増大ぶりも顕著だ。核兵器も所有している。

 人権、自由、法の支配といった同じ価値を共有する同志として、日本や米国が中国に対して向き合っていくということが肝要となる。そのためには日本自身も米国に対して、しっかりと自立性をより高めていく必要がある。

 例えば、安全保障の問題において、米国と一緒になって対応していく時、日米同盟の価値を十分認識しながらも、自立的な安全保障体制を自力で高めておくことが重要だ。そうなれば、今度は価値を共有する米国とより効果的なタッグを組めて、中国としっかり向き合う体制をつくることができる。

 現実には、日本単独の力で中国と向き合うことは厳しい。外交は、経済と交渉力、軍事力のバランスがとれていて、他国とまともに向き合える。これらをそれぞれ日本自身が高めつつ、お互いが認め合えるパートナーとして米国としっかり組んでいくことが重要だ。

 日米同盟が機軸となるのは自明のことであり、さらにそれを世界に価値として伝えていくのが日米の役割だと思う。

──中国の弱点はどこにあると思うか。普遍的な価値というものが中国では一般化されていない。すなわち、今の中国において人権とか、あるいは法の支配の担保は極めて弱く、これがチャイナリスクとなっている。裏を返せば、中国国内において国民がこのことで恩恵を受けていない。それが中国にとっての弱点となっている。

 今のように人権が抑圧されたままで、経済だけが伸びて続けていくことに果たしてなるのか。人は衣食住が足りていなければしゃかりきに時間を惜しんで働いて稼ぐし、食うものがなければ体を壊してまで田を耕すしかない。そこから始まって経済というのは、ある程度伸びていくのだろう。

 中国の今までの価値は生き延びることであり、そして稼ぐこと。人より力をつけて幸福感を手に入れること。こうしたところに集約されてきた。

 これからは、経済面で衣食住が事足りればそれだけでいいのか、という問題になる。この意味で普遍的価値が不在であることが、今後の中国のウィークポイントとなる。

──先だって亡くなった元英国首相のサッチャーが香港返還を1997年にする時、「中国に法治国家のありようを教える」と語っているが、物質中心主義で、単に経済だけで結びついても永続性はない気がするが。

 その通りだ。世界の枠組みというのは、まさにそうした枠組みしかない。一つはイシュー的な項目ごとの枠組み。それに地域的な枠組み。この2つが中心であって、それ以外の枠組みでメジャーなものは一つもない。

 すなわち、イシューごとの枠組みでは、安全保障とか経済の枠組みがある。例えば、経済の枠組みで、日中、米中の二国間の経済問題を論じるということは、結局、両者にとって損か得かの交渉であって、その中で輸出輸入の数量をどうするとか、規制をどう加えるかという議論にしかならない。

 経済だけを語る、安全保障だけを語る。その枠組が二国間であったり、多国間であったりする。また、東南アジア諸国連合(ASEAN)があったり、アジア太平洋経済協力会議(APEC)とか地理的なものもある。

 しかし、人類が目指すべき最低限の普遍的な価値、自由や人権、法の支配などは、時代が変わっても、どんなに技術が発達し経済が繁栄しても目指すべき共有すべき人類の課題だ。

 民主主義というのは政治体制だ。民主主義になれば、制度設計的にはいろいろな民主主義形態があるかもしれないが、それに先立つ法の支配とか人権、自由といった普遍的価値については時代が変わろうが目指すべきものだが、実はそういう枠組みは世界に存在しない。このことは、これから中国が大きくなればなるほど直面していく問題だ。

 国連の中でさえこういうものはない。そこを日本が作っていくことが、単なる二国間だけでなく、中国と向き合っていく上でキーポイントとなるだろう。

──橋下代表の従軍慰安婦発言の真意はどこにあったのか。

 子、孫の時代まで日本がこの問題を引きずり、そしてただ単に、日本が反省して反省してずっと言われ続ける。そうした状況に終止符を打ちたいという思いで言っていることだと思う。

 現在は、日本にとって事実と異なる悪しきデファクトスタンダードができており、これをひっくり返していくことは至難の業だ。しかし、その原因は日本政府や民間、メディアがこれまできちんと説明してこなかったからだ。誤解を解く説明というのも一筋縄でいくものでなく、自分たちが思っていることを言えば国際社会が認めてくれるわけではない。

 日本政府とすれば、あらゆる資源を活用してやってこなければいけなかったけれども、残念ながら政治的意図を持って執念深くやってきた中国や韓国などのほうがプロパガンダにおいては日本より優れ、デファクトスタンダードを作ってきてしまっている感がある。

 だから、橋下さんでなくても誰がそれを持ち出しても至難の業で、またこの逆転を図ろうとすれば、より戦略的にアプローチしていかないといけない課題だ。

 橋下代表がやろうとしていることは、野党の代表でありながら日本の国益がかかった危険な重たい議論に踏み入ることであることは確かだと思う。

 しかし、彼自身は日本がやらないといけないということで意見表明しているわけだから、私とすれば、そのことが少しでも正確に伝わり、そして世界にいい影響をもたらして結果的に日本の国益になり、若い世代が背筋を伸ばして顔を上げて世界を歩ける状態になるようサポートしたいと思う。

【プロフィール】なかだ ひろし 1964年9月20日、横浜生まれ。青山学院大学経済学部卒業後、松下政経塾に入塾(第10期生)。横浜市長(2期)、日本創新党代表幹事、大阪市特別顧問等を歴任。日本維新の会所属の衆議院議員(通算4期)。著書に「政治家の殺し方」「改革者の真贋」「なせば成る―偏差値38からの挑戦」など多数。

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