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2020年東京オリンピック 日本人の「道の精神」に回帰

インタビュー 文部科学大臣兼教育再生担当大臣 下村博文氏に聞く

 五輪担当相を兼任することになった下村博文・文科相は、2020年の東京オリンピックで金メダル30個の目標設定を明らかにするとともに、「術より道」を大事にしたコンセプトでオリンピックの歴史を変えると意気込んでいる。果たしてロス五輪で華やかなショービジネス化したオリンピックに、生命の息を吹く込むことができるのか。文部科学大臣兼教育再生担当大臣の下村博文氏に聞いた。
(聞き手=池永達夫)


──ソチの冬季オリンピックを見られて、2020年の東京オリンピックへの何か示唆はあったのか。

 人類最大のスポーツの祭典であるオリンピックでメダルを取るというのは、ある意味では限界を超える必要がある。選手が特別な思いで雌伏の4年間を過ごし、肉体の限界や精神の限界をいくつも超えなかったらメダルなんか取れない。そこまで極限的に目標を据え、志をもって頑張ったその姿が国民に勇気と感動を与えてくれたと思う。

 葛西選手は今回7回目のチャレンジだったが、初めて個人でメダルを取った。特にウインタースポーツというのはピークが20代半ばでしかない。それを30過ぎても頑張っただけでなく、41歳でメダルを取った。これはウインタースポーツの世界では奇跡に近い。もともと葛西選手は、そう体が丈夫ではなかった身だが、銀メダルを獲得された。まさしくレジェンド、メダルに向かっていく、人知れない苦労や涙こそが感動の源泉だ。

 羽生選手は被災地の東北出身だった。3・11以後、自分が練習していたスケートリンクは使えなくなってしまった。そういう中から這い上がるようなかたちで努力してきた。

 そういうことを国民が見ることによって、勇気と感動を与えられた。

 例えば、ロンドンオリンピックの時は、38個という史上最高のメダルを日本選手が獲得して銀座で凱旋した時に、50万人が集まった。通常、50万人が集まるなんていうのはあり得ない。ましてや政治家の演説でそれだけ集まるわけがない。

 それだけ、テレビなどで多くの日本人が勇気と感動をもらって、選手に会いたいと、銀座に集まってきたということであろう。

 それだって、警察が最初に反対したものだから、コース止めになってしまって、最終的に決まったのは4日前だった。そんなに派手に宣伝したわけでも動員したわけでもないのに50万人も集まった。

 単なるシンプルな告知だけでも、結果的に自然に人々が集まったというのは、それだけ感動するものがあったということに尽きる。

 だからオリンピックというのは、参加したら参加したなりに選手にとっては意義があるかもしれないが、国民へのメッセージという視点からすると、メダルを取れば取るほど勇気と感動を与えてくれ得るものであるから、ぜひ国としてはバックアップして、これから6 年間、強化選手の育成など力を入れていきたいと思っている。

 予算確保が可能であれば、国としては効率的にメダルの数を増やすために、どうしたらいいかと考えるのは費用対効果からしても当然の話だ。昔のような国威発揚ではなく、戦う限りはメダルを目指す。

 2020年の東京オリンピックのメダルの目標は、総メダル数で70~80個。金は25~30個だ。ロンドンオリンピックで日本の総メダル数は38個だったが、開催国日本は、すべての競技種目に参加しやすい。開催国でなかったら予選ではねられる選手でも参加できる。その意味ではチャンスと可能性はあると思う。

 50年前の東京オリンピックでは金が16個だったが、今では競技種目が2倍になっているので、単純に言えば倍の30個は可能性があるということだ。

 トップアスリートがメダルを獲得することによって日本人に夢や希望を与えることができる。

 「選択と集中」というのは予算が限られるなかで必要かもしれないが、ソチなどをみてもスノーボードなど今まで力を入れていなかったところでメダルをとっていることもあるから、そういう人材を発掘するような努力をしながら、いろんなレベルで応援することが大事だ。

 そういった趣旨を踏まえて、スポーツ庁の設置を考えている。スポーツ人口の裾野を広くして、あらゆるスポーツに国民が参加してもらうようにする。健康志向の面からも、国民全体でスポーツ振興に取り組めるようにしたい。

 裾野が広いということは当然、頂も高くなり、結果的にはオリンピアン、パラリンピアンを育成することにつながってくる。

──スポーツ庁は、いつ発足するのか。

 一、二年のうちに決めたい。

 なお、文部科学省がスポーツに力を入れるということと同時に、厚生労働省の中の健康福祉部門などと協力する手立てが必要と思う。我が国ではトータル的な医療費が40兆円かかっており、そのうちの1割の4兆円は、生活習慣病だ。すなわち運動していないことによって4兆円かかっているともいえる。

 ほかの国に比べると、我が国のスポーツ予算は極端に少ない。そのためスポーツ振興くじができ、そこから売上金の何%は使っていいといった別の財布を作ろうとしている。新国立競技場も、その中から一部出してもらうといったことを考えている。

 スポーツ競技については国の負担が3分の2、それぞれの競技団体が3分の1用意することになっている。だが、その3分の1が集められないため、辞退する団体も結構あるし、個人が負担しているケースもある。

 2020年までもう6年しかない。この際、時限立法的に強化選手として3分の1上乗せしてベストな状況で東京オリンピック、パラリンピックに向けて活動別の強化費用として出すことなどにより、事実上、全額国家負担となるようなことを考える。これを個人だけでなく競技団体を含めて考えていきたいと思っている。

 国民から見たら貴重な税金が使われているので、それがちゃんと使われているかどうか担保しないといけない。ただ、3分の2は今までどおり、残り3分の1は別の強化費の形で負担して、事実上は国が全額出す。ただ、きちんと使われているかを確認する仕組みは担保する必要がある。

 スポーツに4兆円なんかいらない。それどころか、その100分の1でもいい。税金コスト感覚からすれば、100分の1の税金投入で、4兆円の医療費を削減するという発想を持つ必要があり、そうした中でスポーツ庁設置を考えていきたい。

 私は40歳を過ぎてから、フルマラソンを3回完走した。これは中学校までサッカーを毎日やっていたことが土台になっている。子供の時からスポーツに接する機会を作ることが、生涯にわたってその後のスポーツをする契機にもなるという視点が肝要だ。日本では学校でのクラブ活動でスポーツをする。一方、諸外国は学校が終わった後、地域のなかでスポーツをやる。いずれにしろ気軽にスポーツができる環境づくりがスポーツ庁の役割として大事だと思う。

 また学校の先生だけでは無理で、例えば地域の学校にオリンピアン、パラリンピアンが出かけて行って、生徒がスポーツを習うというのが刺激的だと思う。全国の小中学校でどんどんやっていけるようにしたい。

 運動しない中学生の女生徒が増えている。この子たちが大人になった時に、さきほどの生活習慣病じゃないが、医療費が膨大にかかることが危惧される。

 スポーツ庁の設置というのは役所だけの話ではない。あらゆる国民が、健康長寿、生き生きと人生を全うできるまで元気に頑張れる環境づくりにおいて、スポーツの果たす役割は大きい。しかも、1人1人が勝手にやっているのではなくて、指導者や専門家を含めて、地域の中でスポーツを楽しめる環境を作っていくのは大事なことだ。

 2020年、東京オリンピック、パラリンピックが決まったわけだから、アスリートだけの大会ではなく、全国民がなんらかの形でスポーツとの関係を作って行くことが世界のモデルになる。

 先月、ダボス会議に安倍総理と出かけて、シュワブ会長から「2017年に、スポーツダボス会議を日本で開きたい」との話があった。それに対して安倍総理は「文化も入れたスポーツ文化ダボス会議を日本政府が全面的にバックアップしたい」と答えた。2020年に向けて、2017年に、世界トップレベルのアスリートとスポーツ関係者、あとは文化関係者が集まったスポーツ文化ダボス会議が開催されることになる。

 これまでのオリンピックの延長線上にはない理想的な2020年のオリンピック、パラリンピックをどうするか、世界トップレベルの英知を集めることになる。

──今回の東京オリンピックの開催は7月下旬から8月上旬という最も暑い時期と重なっていて、ヘタをすれば観客など「ぐったり、うんざり」となってくる。これを逆手にとって日本らしさを演出する一工夫はあるか。

 だから秋にしようという人がいる。

──可能なのか。

 いや可能じゃない。

 1964年10月の秋晴れの下に日本の東京で第18回夏季オリンピックが開催されたが、これはIOCの国際的なルールの中で決まっていることなので、日本だけこうした気候なのだからといって変えることはできない。

 ただ創意工夫は必要だ。基本的には国立競技場などの屋内でやるものが多い。実際、屋外競技というのはマラソンとか競歩とか、そんなに全部が全部というわけではない。ですから例えば、マラソンなんかは夕方や朝に競技をする必要があるかもしれない。それから今から準備して沿道をできるだけ電柱を少なくし、緑の回廊にしていきたい。そういう構想を考えているところです。

 もともと東京には、皇居から明治神宮の国立競技場まで緑の風が吹き渡るような、「緑の大回廊」がある。

 それに緑の都心づくり、さらに最先端の環境対策をしながら、天候そのものを抑えることはできないものの、予算的にも効率よくやりきれるような、例えばミストシャワーといった霧の中をずっとじゃないけれども走れるようにする。それは選手だけではなくて、沿道を埋め尽くすであろう観客にとってもそういうものが必要であり、そういったきめの細かな対策を講じる必要があると思う。

──朝、水をまいたり、涼しい風が吹く夕方の日本の風情を楽しんでもらったり、日本独自のおもてなしができるかもしれない。

 打ち水するだけでもかなり変わる。ミストシャワーもそういうものの一環といえる。

──世界日報の紙面で、大臣はコシノジュンコさんらと鼎談し「柔道や剣道など、日本ではスポーツを道にまで高めた。東京オリンピックでは、この道をコンセプトにしてオリンピックの歴史を変える」と語っておられた。

 そのためには、ある意味では意識改革が必要だが、2020年のオリンピック、パラリンピックだけの30日間で達成できるというものではない。今から6年かけて、そのための準備をしていく必要がある。

 ただ日本というのは何か目標があると、みんなでがんばれる国民性がある。なでしこジャパンのサッカーなどが典型だ。

 あとは日本選手をこれから育てていく上で、先ほどの道を求めることが大事になる。柔道というのは日本発生のスポーツだが、他の国では例えばブラジリアン柔術といったりする。

 しかし、柔道にしろ剣道にしろ茶道・華道にしろ、そういうところにそれぞれ立居振る舞い、礼儀などを含め、それを通して崇高な精神まで高めていくというものだ。要するに道を求める。

 それは日本でしかないものであるが、もともとオリンピック精神(※)にそういうことが謳われている。

 しかし、人類はまだオリンピック憲章に到達していない。

 2020年の東京オリンピックで自ら具現化することこそ日本の使命だと思う。

 そういうことをアスリートやサポーター、スポーツ関係者、国民を含めて、「道」をコンセプトとした位置づけになった時、2020年の東京オリンピックは世界から見て「今までとは違う」となる。

──それこそ、オリンピックの歴史が変わると思う。ロス五輪でオリンピックは変質したとよくいわれる。そこで行われたオリンピックは、華やかだけど商業的なショーとしてのビジネスオリンピックだった。そうしたものから脱皮して、精神的なものをインパワーしていくものが出てくることを期待したい。

 それは決して難しいことでも何でもなくて、もともと日本人が持っていた道を究めて行くという精神に戻るだけだ。だから何か新しいものを作るというのではなく、もともと日本にあったものを提示するだけでいい。

 それは忘れていたものを取り戻すとか、思い出すということだけなのかもしれない。

 決して難しいことではない。

──「教育は国家百年の大計」といわれる。大臣が推進しようとしている教育改革だが、歴史的なものを含めて理想的なモデルはあるのか。

 モデルはない。既存のものを超えなかったら、本当の教育はできず、いままでのモデルというのは通用しない。

 これから新たに作っていくということが問われている。日本に生まれ育った人が、この国に生まれて良かった、自分のチャンス、可能性を最大限に提供してくれたのが日本で、それは教育によって提供してくれるということ。

 教育というのはその人の未来に対する先行投資で、唯一の可能性をもたらすツールといえる。

 例えば我が国では、経済的な発展と同時並行的に格差社会が進んでおり、40%以上が非正規雇用。そういう家庭に育った子供が高校、大学にまでいくというのはますます難しくなっている。

 しかし、貧困の中にあっても、本人に志があれば、高校、大学だけでなく大学院や海外留学することもできるというチャンスと可能性をどう提供するかというのは政治の仕事だ。

 エジソンやアインシュタインも今でいう不登校であり、発達障害と言われている。今の小中高の不登校児童生徒数と高校の中退者数は合わせて22万人を超えている。このうちの半分ぐらいは、実は発達障害児ではないかと分析している学者もいる。

 そういう子達が結果的にドロップアウトしている。日本の教育が画一的教育で、ある基準をクリアしなかったら認められないシステムになっている。いわば、あらかじめ決められた制服があり、その制服に合わせるように自分の体を変えないといけないような教育システムとなっている側面がある。

 でも実際は、人というのは個性がある。できない勉強があるかもしれないけど、できるものもある。現在、いいものをどう伸ばしていくか、多様性の教育が問われている。

 そういう発達障害児やドロップアウトした子供だけでなく、受験世界では吹きこぼれというのだけど、つまり、できすぎる子供、そういう子をもっと伸ばす必要がある。それぞれの子供たちから意欲をさらに引き出すための教育環境を作るということが、1人1人の豊かさにつながっていくと思う。

──基本的には多様性のある教育の自由化に流れていくということか。

 それは誤解される言葉で、そうすると1人1人、好きなことをやっていればいいとなるが、要は1人1人がもっている潜在的な能力をどう引き出すかということを教育が提供できるかという視点だ。

──お書きになった「教育立国論」の中で、教育障害児に対するイギリスのシステムの評価がある。

 ケンブリッジとかオックスフォードでも、そういう発達障害の子供が受験できる仕組みがあって、普通の健常者対象の受験では落ちこぼれるしかないけれど、ハンディギャップをもった子に対してもそれに見合った入学試験がある。

 そもそも全教科できなくても、例えば得意分野が3つあれば、それを核にして入学の門を突破できる。また英国には、そもそもペーパテスト入学試験そのものがない。

──入試がないのか。

 ペーパーテストはなく、高校時代の成績で決まる。

 アメリカもそうだ。いわゆる学力だけの試験をしているわけではない。

──海外留学生はどう選定するのか。

 推薦で入る。

──教育障害児を受容するシステムを持ったイギリスの背景には、キリスト教的な文化があるように思う。どんな人であれ神の栄光を表わすんだといった陽的な楽観があるような気がするが、そうした文化的なバックグラウンドの違いがあるのか。

 キリスト教国家はたくさんあるが、すべてがイギリス的な仕組みであるわけではない。歴史的な教育の経緯からくるものだと思う。

──「教育立国論」の中で感動を呼ぶ部分は、ご子息のことだが、今、どうしているのか。

 大学を卒業して、イギリスで専門である商業デザインを活かしながらと思っていたが、イギリスは日本以上に就職難で正社員として採用されないとビザがおりない。そもそも外国人は正社員として採用しないというのがイギリス社会だから、イギリスでは就職できなかったが、日本に戻って企業に入ってその才能を活かす仕事に従事している。

 息子は数学はできても、文章問題とか読解的なものとなると全く解けなかった。漢字も覚えられない。勉強をさぼっているわけではない。何十回と書き取りの練習をしても、新しくページを開いていざ書こうと思っても書けないのだ。ディスクレシア(学習障害)である一方で、図形的なデザインとか芸術的な分野は極めて優れている。

 ディスクレシアというのは、知的な遅れは全くないのに、読んだり書いたりすることだけが苦手という特性がある。

 例えば、日本の芸術大学では入ったあとに芸術的な能力が問われるが、入る前はやはり英・数・国理・社ができなかったら入れない。このため息子が最初に入ったのはロンドンの芸術大学だった。

──今回の教育改革では、教育委員会と道徳教育の2つが主要テーマとして浮上しているが、そこに至った背景には何があったのか。

 そもそも教育委員会改革が浮上してきたのは、大津市でいじめ問題で自殺した事案や大阪でも先生の体罰で生徒が亡くなった事案が端緒となっている。そうしたシリアスな問題に対して教育委員会が対応できていなかった。首長が責任を明確にするという組織の抜本改革が必要だと思う。

 なお、教育改革は教育委員会改革と道徳教育だけではなく、実は44項目を挙げ、同時並行で改革プランを作ってやっている。文科大臣としてだから、教育とサイエンステクノロジー(科学技術)、それに文化とスポーツ分野における項目だが、そのうちの2つが今の教育委員会改革と道徳教育に過ぎない。

──道徳教育というのは共感する。戦前は貧しかったけれど志があった。戦後は豊かになったけれども、志も品性も貧しくなっている。外的な社会は完成に近づいている感はあっても、仏作って魂を入れずで画龍点睛を欠いている。道徳教育というのは、その歴史的な穴を埋める作業だと思う。道徳教育で一番の核心は何なのか。

 戦後教育で知育、体育ではそれなりの評価ができても、徳育が欠落したままになっている。

 しかし、2020年ぐらいになったら、日本ほど道徳教育のモデルになる国はないと言われるようになっていると確信している。今でも相当、誤解されているが、国が道徳教育に力を入れるというと、戦前教育の復活とか国家主義といった具合に批判がある。

 しかし、そんなレベルではなく、国境や人種を越え、民族や歴史まで越えて、人が人として生きていくための規範や生き方というのは、歴然としてあると思う。

 特に、日本は特定の宗教に拘束されていない。いくら道徳を作ろうと思っても、キリスト教の道徳だったらそれは宗教だ。

 キリスト教や仏教、イスラム教などそれぞれの宗教に影響された中での道徳律や古今東西の世界でも、人が人として生きるモデル的なものを、日本ではいいとこ取りができるし、それを集約して道徳として高めるかたちで子供たちに教えていける。教師が一方的に親孝行がこうあるべきだと教えるのは難しいし、教師の指導書に、こう読み込んでいくべきだといったものは作るべきではないと思っている。

 そうではなく人それぞれに捉え方は違うわけで、物語を読んで子供たちが議論する。無論、明らかに反社会的な捉え方は別にして、同じ親孝行でも人によってこういう見方があるのか、こういう考え方もあるのかと、議論するなかで考えさせる。それで結果的に今の自分があるという親のありがたさを説教調ではなく、子供が自ら考えるという、それが特定の宗教宗派の色がなくても、考えられるようなものが日本では作れると思う。

 数学や英語といった教科も大切だが、ある意味ではノウハウだ。しかし、道徳というのはその人が生きる上で本質部分だから、発達段階のそれぞれにおいて「人生いかに生きるべきか」いうことを習うのは大切な事だと思う。

 特に、子供が子供の時の偉人伝を読むというのは感化されると思うが、歴史に残るような偉人伝というと、やっぱり反作用があって批判がすぐ出る。今年の4月から「私たちの道徳」という教材を、道徳の時間に使うようにする。その道徳教材に戦後初めてだが偉人伝を入れた。

 その中で小学5、6年生には、「イチロー」が入っている。大リーグのイチローが小学校6年生の時に書いた作文だ。イチローは小学6年生の時から、将来、野球選手になりたい、大リーグ選手になりたいと思っていた。いかに志を早く立てるということが人生において大切か、エピソードとして載せる。偉人伝というのは歴史上に残っているだけではなく、今、活躍している身近な中でもたくさんある。

※オリンピズムの根本原則1.オリンピズムは人生哲学であり、肉体と意志と知性の資質を高めて融合させた、均衡のとれた総体としての人間を目指すものである。スポーツを文化と教育と融合させることで、オリンピズムが求めるものは、努力のうちに見出される喜び、よい手本となる教育的価値、社会的責任、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重に基づいた生き方の創造である。

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