トップページ >

ワシントンタイムズ会長が普天間視察

敵味方区別なく祀った碑に感銘 日本経営者同友会会長 下地常雄

 日本経営者同友会と提携関係にあるワシントンタイムズ会長のトーマス・マクデビット氏が2月に訪日した際、私は彼を沖縄に誘った。

 忙しい日程を工面しての一泊二日の沖縄訪問だったが、マクデビット氏は快諾してくれた。前々から一度、沖縄を見てもらいたいとお願いしていたのだが、ジャーナリズムの世界で働く彼としても、世界の安全保障問題では避けて通れない沖縄を一度は見聞しておきたかったようだ。

「平和の礎」を訪問

 一番、感心したのは生き馬の目を抜くような米のビジネス社会で揉まれ、政界の陰謀があちことに張り巡らされ、スラップの危険にさらされているワシントンDCで、リベラル紙のワシントンポストの向こうを張る保守系新聞の経営を託されているマクデビット氏であるが、意外と純粋な人間だと実感したことだ。

 それは沖縄県民なら誰もが知っている国際沖縄平和祈念公園の「平和の礎」を訪問した時のことだった。

 「平和の礎」には、平成25年6月現在で、二十四万千二百七十七人の名前が刻まれていた。その内、沖縄県民は十四万九千二百九十一人である。刻銘対象者、国籍を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の名であり、今もって毎年、追加刻銘されている。

 先の大戦で沖縄では20万人が亡くなった。広島、長崎に匹敵する規模の犠牲者を出しているのだ。

 1945年の4月1日、沖縄本島に上陸した米軍との戦いの中で、生命を落とさざるを得なかった壮絶な状況は筆舌に尽くしがたいものがある。

 それは一瞬にして原爆にやられた広島と長崎とは決定的に違うところだ。いわば真綿で首を絞められるような半死半生の獄門の痛みが伴う惨劇だったであろう。

 しかも人口規模において劣る沖縄で15万人余りが犠牲になったということは、県民の3人に1人が犠牲者となっており、親族から犠牲者を出していない沖縄県民はいなかったのではないかと推測する。

ユイマール精神

 だが、日本には「死者に罪なし。死ねばみんな仏様」とする精神文化がある。「平和の礎」でも、敵味方の区別なく沖縄での犠牲者たちの名が刻まれている。地域住民や日本軍人のみならず、米軍犠牲者を含め、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が軍民、人種、国籍を問わず祀られているのだ。石版に刻まれた犠牲者の名前は、地域別、国別にずらりと並ぶ。

 南北戦争の犠牲者を祀ったアーリントン国立墓地でも、勝った北軍だけでなく敗北を喫した南軍の犠牲者らを同時に祀ってあるが、「平和の礎」は米国のキリスト教に基づいた博愛主義というより、沖縄の風土、憎しみからは何も生まれないとのユイマール精神に根ざした哀悼の意を表する。

 それを見たマクデビット氏は、目を潤ませ頭をたれ鎮魂の意を示した。

 「死者に罪なし。死ねば仏様」とする日本人の死生観こそは、敵の墓を暴いて死者の骨にまでムチをあてる中国文化とは彼我の違いだ。それこそが、靖国問題の本質だとも思っている。

一行も報じなかった沖縄の新聞

 ともあれ、その夜、マクデビット氏と、米国会議員と日本の国会議員が沖縄に会し、この地で日米平和サミットを開催しようということで話は盛り上がった。

 また歓談の場を持った折に、大田元沖縄県知事や佐喜真淳・宜野湾市長も両手を挙げて賛同してくれた。

 中国の平和的台頭がフィクションでしかなかったことが鮮明になった今、安全保障や回復し始めた経済の面からも、日米関係の強化は歴史が要求する重要課題となっている。

 無論、日米平和サミットをやったからといって簡単に歴史的課題を解決できるわけでもなく、安全保障上の難題を解決できるわけでもないが、肝要なことは両者のパイプを緊密にすることだ。

 できれば、政治に携わる日米の議員が電話一本でいつでも忌憚なく話せる関係を構築することだ。そうなれば、両国が不要な疑心暗鬼に陥ったりせず、国際政治の大道を歩むことができる。

 なお、残念ながら沖縄の新聞はこのことを一行たりとも報じなかった。ニュース感覚が萎えてしまっている沖縄のジャーナリズムの衰退そのものを悲しく思う。

この記事のトップへ戻る