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鯨は日本古来の食文化 捕鯨技術の継承断つな

インタビュー 衆議院予算委員長 二階俊博氏に聞く

 司馬遼太郎の作品「尻啖(しりくら)え孫市」は紀州雑賀(さいか)衆の頭目として鉄砲の腕にもの言わせ、無敵の信長に〝尻啖わせた〟戦国時代奇男児の痛快な一生を描いたものだ。その雑賀衆鉄砲隊が秀吉の朝鮮出兵の時、朝鮮に動員されたものの「このいくさには大義はない」として朝鮮軍に寝返り、日本側に鉄砲を向けた。朝鮮軍の勝利に貢献した雑賀衆は貴族に列せられて、住み着く。和歌山県出身の二階俊博衆議院予算委員長は、こうした歴史の秘話を紹介しながら、日韓を結ぶ飛行機の機内誌に掲載するなどして「近くて遠い国」とされる隣国との距離を縮める努力をすべきだと語る。二階氏に捕鯨問題、中韓外交問題を尋ねた。


──国際司法裁判所はこのほど、我が国の南氷洋の第二期調査捕鯨を違法だと判決を下した。我が国の伝統的食文化を守るために世界とどう折り合いをつけるべきか?

 捕鯨問題は私の郷里である和歌山県とも極めて関係が深いが、全国で捕鯨に関わり合いのある30の市町村で「捕鯨を守る全国自治体連絡協議会」を結成し、和歌山県太地町の三軒町長が会長になって、鯨類捕獲調査の結果を踏まえた持続的な捕鯨の再開に熱心に取り組んでいる。

 まず、鯨の捕獲調査の歴史の流れを確認しておきたい。

 米国がベトナム戦争の最中にあり政治・経済的困難に陥っていた1972年、ストックホルムで開催された国連人権環境会議においてクジラが環境問題のシンボルとされ、科学的根拠が全く無いまま「商業捕鯨の10年間停止」が採択された。

 米国はその余勢を駆って、同年の第24回国際捕鯨委員会(IWC)年次会合に同様の提案を行ったが、IWC科学委員会は、包括的モラトリアムは科学的に正当化できないと勧告し、IWC本委員会は米国のモラトリアム提案を否決した。

 その後、反捕鯨国や世界的な反捕鯨団体の働きかけによって、IWCに加盟する国が相次ぎ、ついに1982年の第34回IWC年次会合で、鯨類資源に関する科学的知見が不十分であることを理由にした「商業捕鯨モラトリアム」が採択された。

 当初、我が国は科学的根拠に欠けているとの理由で同決定に対し異議申し立てを行ったが、日米協議において、結果として3年後にはフェーズ・アウトされることとなる日本漁船の米国200海里水域内操業を確保するため、1985年にやむを得ず異議申し立てを取り下げた。

 一方、1982年のIWC年次会合は、「商業捕鯨モラトリアム」の採択に際し、「1990年までに鯨類資源について包括的な資源評価を実施し、商業捕鯨モラトリアムを見直す」との条件を付けていたことから、我が国は1987/88年以降、商業捕鯨再開に必要な生物学的情報の収集を目的として、国際捕鯨取締条約第8条に基づく科学調査である捕獲調査を実施している。

 しかしながら、IWCで多数を占める反捕鯨国は、この付帯条件さえも無視し、モラトリアムの見直しを拒み続け、現在に至っている。元来、鯨の食文化は歴史的なものだ。私は31年前の一年生議員の時、日米友好議員プログラムで訪米した。この時は、小渕元総理が団長で事務局長が加藤紘一氏、一年生議員仲間は町村君とか金子参議院議員(元長崎県知事)と一緒だった。

 私は小渕団長に「鯨の事を訪問した先々で話したいと思う。その発言を認めてくれるか」と尋ねた。それに対し小渕団長は「それはもっともだ。どうぞやってください」ということだった。

 その約束があったから訪米団に参加した。

 それで、私は毎度、毎度、鯨の事を言っていた。すると途中、小渕団長が「西海岸を終えこれから中西部に入るが、同行団の中から、この辺で勘弁してくれんだろうかという声が上がっているがどうだろうか」と言う。

 それに対し私は「それはだめだ。私は有名な議員で一言発したら、全米で声が轟くというのなら、それでいいでしょう。しかし、私は毎回、毎回、行くところで発言しないとしょうがない。だからやるんだ。その約束で参加した」と答え、旅が終わるまで日本における鯨文化の歴史性と捕獲の正当性を訴え続けた。

 国会議員をホームステイで受け入れてくれる家庭へ紹介されたこともあったが、そこでも鯨の問題を話した。

 ある米閣僚は「鯨を食べるというのはお母さんの肉を食べるようなものだ」と言うから「あなた方が食べる牛肉があるだろう。牛が屠殺場に連れて行かれる時、涙を流しているじゃないか。それをどう思うか」と尋ねると、彼は「すべての生き物を食べるときには、胸に十字架を切って食べることにしましょう」と言う。「それじゃ答弁にならない」と反論した。

 ニューヨークでは、日本食の有名なレストランが鯨料理を出した途端、随分な仕打ちを受けたような話も聞いた。

 鯨は日本古来の食文化だし戦後、ほとんどの国民が栄養失調で十分な食べ物もない時、鯨のおかげでみんな命をつないだ。その日のことを忘れちゃだめだ。

 金を出して牛肉を食えばいいじゃないかと言う人がいるけど、そういうことではない。農林省の中には今、鯨料理を出しているレストランがある。林農林大臣も私も時々、食べに行っている。レストランの経営者は和歌山県人だ。──調査捕鯨といいながら実際、食べていたという問題がある。そこら辺を海外からつつかれてしまっているが、ノルウエーなどとも共同戦線を張りながら、正面から論陣をはっていったらと外から見ていると思うが----。

 その通りだ。何も遠慮する必要は全くない。調査捕鯨にも資金が必要だ。そのために鯨の肉を売ってどこが悪いのかということだ。そもそも、このことは国際捕鯨取締条約で認められている。─豪州も野生カンガルーを年間200万頭捕獲して、殺処分して食肉にしたりペットフードにしている。

 やっているんだけど、我々もよその国が何を食べようがいちいち文句を言ったり抗議する必要はない。それぞれの国の歴史と文化があるんだから。

 翻って我々もそういうことを言われる必要はない。ともかく、ひるまず主張を続けることが肝要だ。

 それからシーシェバードというのは、本当の捕鯨反対運動というより、雇われている傭兵型の運動家たちだ。それに対して政府はもっと毅然たる態度をとるべきだ。

 和歌山県の太地町に行くと、その手の連中が上陸してうろうろしている。これに対して誰か危害を加えたということになれば、国際問題になるだろう。しかし、そうなった時、そうした者たちを放置していた政府に責任がある。

──彼らは、細々と個人捕鯨しているノルウエーには行かなくて、テレビ映りのいい日本に来る。

 テレビ映りが良く、ショーアップできるからだ。彼らが考えているのは、世界に向けインパクトのある絵柄がほしいのだ。それがお金になる。

──一年生議員からこれまで変わらず、ずっと鯨に関わってきたのか?

 そうだ。和歌山県人として当然の事だ。捕鯨に携わる人たちを守るというのは、国会議員として普遍的な使命だ。

 そもそも鯨類は古来、我が国はもとより世界各地で食料資源として利用されてきた「海の恵み」だ。近い将来、人口の増加などに伴う世界的食料不足が深刻化することが予想される中、捕鯨を再開し、持続的利用が可能な状況にある鯨類資源を食料として有効利用していくことは必要かつ重要な課題だ。

 現在、我が国が行っている鯨類捕獲調査は、国際捕鯨取締条約8条の規定に準拠して正当に企画立案され、鯨類の資源管理を高度に改善するため必要な学術研究だ。何より鯨類学全般にわたる学術研究の向上に大きく貢献するだけでなく、世界人類のための鯨類資源の持続的利用や捕鯨技術の継承の意味合いも大きい。捕鯨、とりわけ母船式捕鯨は大規模な設備と捕鯨従事者の長い訓練期間を経た高度の技術を必要とする。技術革新が進む現在でも、捕鯨がいったん停止されると、それらを復活させることは極めて困難だ。

 また、四面を海に囲まれた日本では、太古の昔から鯨を食料として利用しており、全国各地において優れた鯨食文化や鯨に関わる芸能・文化が発達してきた。鯨類捕獲調査は調査副産物を供給することなどによって、これらの文化の維持・継承を強力にバックアップしている。

 そして、何より鯨食を含む固有の文化を正当な理由もなく外国の横暴や圧力で失うことは、日本国民・民族の存在と誇りに関わる重大な問題として捉えられるべきだ。

──尖閣の国有化や歴史認識問題が浮上して、日中、日韓関係は首脳会議も開催できないほど冷え込んだままだが、どう展望しているのか?

 中国の態度の真意がどこにあるのか、というのは理解しかねるところがある。

 軽々に発言すべきではないかもしれないが、日中の古い歴史、さらに長く友好親善を両国が唱え続け、それを実行してきた。それと今と何がどう違うのですかということだ。

 ただ2012年12月に発足した安倍政権が1年4カ月を過ぎ、この間、日中、日韓間において首脳会談が開催されていない。

 両国で障害となっている問題は、中国とは尖閣問題、安倍首相の靖国神社参拝問題、韓国とは従軍慰安婦問題や歴史認識問題、竹島問題だ。

 これらはいずれも我が国の国益に直結した問題や、すでに両国間で条約を締結し解決済みの問題でもある。我が国とすれば淡々とその事実を国際社会に向け訴え、理解を得ていく努力をし続ける必要がある。

 他方、中韓に対しても、一丸となって我が国の立場を誠実に伝え続けることが不可欠だ。

 今すぐに、友好を高らかにうたう状況にはなく、今は実務レベルで双方がテーブルに着きやすい分野を中心に地道な外交を展開し、近い将来の首脳会談に備える時期だろう。そうした中で、我が国が中韓との関係を一歩前進させるための策として、中韓と協力可能な分野、協力が不可欠な分野での交流を積極的に推進していく必要がある。

 その一つが環境分野での協力であり、また、観光を通じた草の根の人的交流促進も漢方薬のように効いてくる。私は経産大臣の時、両国で1000人規模のシンポジウム等を日本、中国で展開した。

 なお、2014年4月28日から29日にかけ、韓国中部の大邱で日中韓3カ国環境相会合が開催され、中国で深刻なPM2・5による大気汚染対策について協力強化が合意された。

 環境分野における協力は、我が国の官民挙げての協力が可能な分野だ。

 大気汚染などの環境の改善は、中韓両国の国民が切に望むものであり、経験と技術力を持つ我が国による協力を、中韓両国政府が受け入れていくのが比較的容易な分野だ。

──政治家が積極的に動ける舞台はどこになるのか?

 その一つに日中韓の3カ国の枠組みが活用できる。新聞などでは、中韓が歴史認識問題で共闘とか、対日関係で共同歩調を取っているとかの記事が見受けられる。

 我が国は海を挟み中国、韓国と向かい合う東アジア地域の一員であり、この地位は未来永劫変わることはない。

 これまで日中韓の政治的枠組みを活用して、いろいろな問題を話し合い、協力してきたが、改めてこの枠組みを活用して二国間関係を立て直す土台にすることが可能だ。

 なお中国からいろんな方が見えるが、連立内閣時代、私が運輸大臣をしていた時、中日友好協会から日本から大勢の観光客を伴って中国を訪問してもらって、草の根から良好な日中関係構築に動いて欲しいとの要請があって、トータルで5200人連れて行った。

 日中友好協会の会長には平山郁夫先生になっていただいた。小渕内閣で発足し、実行する時は森内閣だった。

 その次は日中国交30年に、1 万3000人の方々とご一緒しました。万里の長城付近の八達嶺に参加者全員の1万3000本の記念植樹を行い、今はもう大きく育っている。双方とも江沢民、胡錦濤氏が会合には出席してくれた。さらに3回目は、日中双方向3万人ということで、日本から2万人が訪中し、中国から1万人が訪日した。この時は事故が一件も起きなかったこと、さらに政府が予算を出したのではなく、参加者のポケットマネーで全員の参加を得ている。

 当時は中国の熱烈歓迎に見られるような熱狂的な日中友好の時だったが、それが今日の状況は何なのだろうか。その時、参加した人たちに「あの時はいったい何だったのでしょうか」と言われると、答えに窮する思いに駆られる。

 だからもう一度、平常心を取り戻して、日中のリーダーは一日も早く友好関係を取り戻せるように努力すべきだと思う。

──韓国とはどうか。

 韓国アシアナ財団が6月1日、ソウルでNHK交響楽団を招いて演奏会をやる計画が持ち上がった。「これを日本との協力でやれないでしょうか」と韓国側から話があった。

 それで、日韓共同での開催がほぼ決まったが、今回のフェリー沈没事故で大勢の修学旅行生徒が死亡し、韓国での各行事が自粛傾向にある中、実行するのかどうかは韓国側の判断に従うつもりだ。

 韓国側にいろいろ事情を聞いてみると「やり方はいろいろある。つまり、犠牲者に黙とうを捧げるとか、死者を偲ぶ曲を入れることで弔いの演奏会とすることも可能だ。これだと単なる音楽会というより、さらに深いものになる」という意見もあると言われる。いずれにしても、韓国側で判断されて最終的な結論を出してもらえば、日本側はいかようにも協力すると申し上げている。

 これが実行されるとなると、日本の文化をもっていくというだけでなくて、双方の友情の発露として開催されることになり意義深いと思う。韓国とは玄界灘を隔てただけの隣国だからいろいろあるが、いい話もたくさんある。

 例えば、私が日経新聞の記者に話して記事(2013年9月2日付)になったもので、こうした韓日のいい話を、両国の教科書や日韓を結ぶ機内誌などに掲載してはどうかと思う。

 秀吉の朝鮮出兵の時、私の郷里・和歌山県から朝鮮に動員された雑賀(さいか)衆鉄砲隊は「このいくさには大義はない」として反旗を翻し朝鮮軍に味方、日本側に鉄砲を向けた。さらに、火薬や鉄砲の製造や砲術を教え朝鮮軍の勝利に貢献した。その功績から雑賀衆は貴族に列せられて、住み着く。雑賀衆の武将は沙也可と呼ばれた。

 私が経産大臣の時、韓国の現大統領が当時の野党国会議員とご一緒に大臣宅にお越しになった。そこで私は「雑賀衆が住み着いたのは、誰の選挙区か」と尋ねた。すると大邱(てぐ)だという。私は外国人が選挙運動をやっちゃいけないというぐらいのことは知っているが、やり方はいろいろあるじゃないか。私は選挙区で相当数の票を動かすことができると啖呵を切ったことがある。

 そんなことを積み重ねていかないといけない。そういう掘り出し物の話は、いくらでもある。

 喧嘩して何の得があるか。双方が痛むだけだ。つまらないことばかり言い合って、解決の道を閉ざしていくのは残念だ。責任ある政治家のリーダーシップで解決の道を急ぐべきだ。

 だから、私は日中韓のトライアングルを上手くやって、観光でもいい。医療介護問題でもいい。3か国が協力する体制の構築に動く必要があると思っている。韓国南部の麗水で海洋博覧会があった時、日本は協力できないという。何かというと、竹島を韓国領土として色分けしているからだ。

 それで私は当時、自民党総務会長だったけど「バカなことを言うな。領土問題を一挙に解決できるわけがないのだから、竹島は竹島。博覧会は博覧会と分けて考えないとしようがない。いきなり解決できないから博覧会も反対だ、というのは暴論だ。日本の愛知万博には韓国から賛成してもらった。中国の博覧会は3か国でやったじゃないか。それを麗水の時だけ、塗っている地図の色が悪いから、協力できないというのは筋が通らない」と言って、多くの機関に協力を呼びかけたことがある。

 その年は6回、多くの一般参加者も引き連れて韓国を訪問した。何度か経産相だったこともあり、少なくとも自分の責任だけは、できる限り果たしておこうと思ったからだ。

 それで韓国の李明博大統領は、私に勲章を授与してくれた。私は「前にももらっているから、いりません」と言った。「そんなことを言わないで李大統領が感謝しているんだから」と言って、先だって地元の同志と一緒に韓国を訪問し、頂いてきた。

 韓国人にしても自分の問題として日本問題、韓国問題を持っていて当然、仲よくやるべきだと思っている人は少なくない。だからいつの時代でも重要なことは、日中韓の3か国のリーダーがもっとしっかりして、東アジア協力体制を構築し上昇気流をつかむべきだと常々、思っている。

──安倍政権のアベノミクスそのものの評価はいかがか。

 安倍首相が自信をもって取り組まれていることに敬意を表したいと思っている。

 これからどういう展開をするかということだが、日本とすれば世界の国々と経済発展を図っていく、これは大事なことには違いないが、とりわけアジアの中心国である中国と韓国との関係を、どううまくまとめるかが肝要となる。

 経済産業相の時に、力を入れたのは、ASEANとアジア諸国の経済交流を盛んにやるために何ができるかということだった。それで東アジアASEAN経済研究センターというものを、作ることを提案して、16カ国の了解を求めるために各国を行脚した。経済産業大臣は3度やった。最初は小泉政権時代、それから福田、そして麻生。この3回の間に、各国の関係閣僚と話し合いを続け了解を取り付けていった。

 それでインドネシアの首都ジャカルタに本部を置くことにして、今、6年目になるが成功をおさめている。アジアには研究機関が6000ほどあるが、その中で日本が100億円出資した東アジアASEAN経済研究センター(ERIA)は、経済研究センターとしての実績が評価され、今、世界で30番内に入っている。相当の勢いで躍進している。

 日本が金も人も出して成功した一例だろうと思うが、ここを拠り所として日本の中小企業がアジアに出ていく足場にしていただればと期待している。

──前に中曽根派閥の会合があったとのことですが、戦後の歴代首相の中で誰を評価しているのか。

 閣僚としてお仕えした人たちは何人かいるが、戦後史の中では吉田茂のリーダーシップは、この人の判断によって日本が救われた部分が随分あるわけで歴史に残る人だろう。

 それから安保問題で苦労された岸信介、庶民宰相として求心力をもった田中角栄先生は政治と国民の距離を近いものにした功績は大きい。

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