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インタビュー 次世代の党党首 平沼赳夫氏に聞く

自主憲法制定なくして国家なし

まずは改憲条項の改正から

 世に政治屋ばかりが増殖する中、「平成の備中武士」平沼赳夫氏の輝きは異彩を放つ。長いものにまかれることなく、離党をも辞さず、送り込まれた刺客も正面から迎え撃った。その平沼氏が今秋、次世代の党を立ち上げた。その基本政策の最筆頭は自主憲法の制定だ。故郷岡山が生み出した英傑・山田方谷のことから対中外交まで平沼氏にその腹の内を尋ねた。


――12月総選挙論が出てきているが?こともあろうに総理総裁が外遊中、一部マスコミの経営者が扇動して、解散風を吹かせたことはあってはならないことだと思う。

 総理には解散権がある。解散したら受けて立って、堂々とやるしかないと思っている。ただ、衆議院の選挙は国費が600億円以上かかる。しかも年末で、みなさんの生活が厳しい時に、予算を遅らせて、大義名分のない解散総選挙というのはおかしいと思う。自分たちの事だけしか頭になく、国民不在だ。

――首相の本音とすれば、2閣僚辞任でごちゃごちゃしてきたコップの中の政争を封印したいがため、解散権という伝家の宝刀をちらつかせたわけではないのか?

 それとアベノミクスが怪しくなってきた。第1の矢、第2の矢は射ったけど、第3の矢というものが、明確になっていない。消費増税で地方の経済がおかしくなっている。第3四半期、7―9月のGDP予測値は悪いと聞いている。来年10月、消費税の2%アップは、先延ばしするからと言いながら、解散総選挙で来年の統一地方選挙を有利に戦いたいという党利党略があるのではないか。

――政治家歴35年。温め続けた第一の政治課題は何か?

 私は衆議院議員になるまで二度落選した。3度目の正直で6年半かかって初当選して以後、11期35年間の議員生活だけれど、落選中から自主憲法の制定を言い続けてきた。

 今度、次世代の党でも基本政策の最筆頭は自主憲法の制定だ。

 政治家として35年以上前から思い続けてきた自主憲法制定というのが、ようやく緒についてきたと思っている。

 次世代の党の基本理念は3つある。

 まずは自立だ。福沢諭吉の言葉に「個人の独立なくして、国家の独立なし」とある。今の日本は自立していない。安全保障ひとつとっても自立してない。2つは、新保守という形で、保守を貫いていきたい。

 3つは党名の通り次世代だ。

 憲法こそ自立していないわけだから、自主憲法制定は第一次安倍内閣の時に、国民投票法まで話題に上ってきたわけだから、いいチャンスなので、しっかりやっていきたい。

――日本維新の会と分かれて、次世代の党を立ち上げた。党首として発信しやすくなった?

 大阪勢が結いの党と一緒になりたいということで、分かれることになった。結いの党は集団的自衛権NO、憲法改正NO、原発NOだ。こういうことで基本政策が一致しないので、われわれは分かれて23人になったが、みんな同じ考え方の人が集まったからむしろやりやすくなった。

――そもそも自民党発足時、自主憲法制定は最大の眼目だったはずだが、本家本元の自民党の中でさえ本気で取り組んでいる議員は少ない。

 自民党は昭和30年11月15日、保守合同によって誕生して、立党綱領を見ると、いの一番に「自主憲法制定」が挙げられている。だから3度目の正直で入った衆議院で、私は躊躇なく自民党の憲法調査会に入った。そうしたら、その憲法調査会に護憲派がうようよいたというのにはびっくりした覚えがある。

 鳩山一郎氏は解散総選挙で、自主憲法制定を掲げて戦ったが敗れた。それ以後、自由民主党の歴代総理大臣は、路線転換をしてしまった。それでずるずると67年もの間、現憲法を使っている。

――諸外国を見ると、まずありえないようなことだ。不磨の大典のように憲法を守り続けるようになったのはなぜか?

 例えば共産党の動きをみるとよく分かる。共産党は最初、改憲政党だった。有名な野坂参三の憲法を決める制憲議会での演説が議事録として残っている。それを見ると共産党は、党として徴兵制を認めていた。徴兵制条項無き憲法は、独立国の憲法じゃないとして反対していた。

 これが議事録に残っている。それが憲法の一字一句まで変えてはならない、という護憲勢力の筆頭に豹変している。憲法をしゃぶり尽くして、共産党政権を樹立するために徹底的に利用しようとしているに過ぎないものだ。

――自主憲法制定というと改憲と石原慎太郎氏の廃憲論とあるが?

 石原さんのいう憲法廃棄論というのが、筋道としては正しいと思う。というのも、マッカーサーは憲政を重んじ、旧帝国憲法73条の改正条項を使って、今の日本国憲法を誕生させた。

 しかし、明治憲法は天皇主権から主権在民にするような国体の改変は認めないと書いてある。それを敢えて装って、強権を行使した。

 それで67年間、日本はこの憲法をずっと使い続けてきた。石原さんが言っている戦時国際法やハーグ条約からみても、戦勝国は敗戦国に憲法を押し付けてはいけない、ということになっている。

 だから石原さんが言うように、現憲法は戦時的な基本法として廃棄すべきだ、というのは法理論では正しいと思う。

 ただ、67年も今の憲法であらゆる法律だとか条約が現実にできたわけで、廃棄というのは大ナタを振るい過ぎだという部分もある。

 そういう意味で、今の憲法96条にあるように国会議員の3分の2の賛同を得た後、国民投票で過半数の賛同を取ることで憲法改正をしないといけない。

 しかし、96条の3分の2と言うのは、あまりにもハードルが高い。だから国会議員の過半数ということにしようとしている。

――欧米でも現実に合わせ、憲法をどんどん変えている。

 米国の憲法改正条件は、国会議員の3分の2以上の賛同が必要だが、それは出席議員の3分の2だ。日本は国会議員全定数の3分の2で、そこが違う。

 さらに、欧州では国会議員の半分、国民投票も半分の賛同でいい国もある。英国ではそもそも憲法がないわけだけど。

――国会の代表質問で備中松山藩士の山田方谷の話をしたことがある。方谷の何を評価するのか。

 代表質問では、質問時間の半分を方谷の話に割いた。方谷は岡山が生んだ立派な人物で、小さい時は神童と言われていた。

 「君は大きくなったら何になるのだ」と聞かれた7歳の方谷は「治国平天下」と言って大変、有名になった人物だ。7歳の子供がですよ。

 それで板倉藩の殿様はそれを覚えていて、藩校で優秀な成績を上げた方谷を京都や江戸に遊学させ、帰ってきた方谷を29歳で藩校の教授に任命する。方谷は、30代で塾頭になる。

 板倉藩の殿様は非常に方谷を信用していて、お前に全権を委任するから藩の財政を立て直してくれと依頼する。

 当時、板倉藩というのは貧乏藩だった。建前の石高は5万石だったが、実際は3万石しかなかった。それで大阪の両替商からの借金が10万両に積み上がっていた。10万両というと、今のお金で換算すると400億円ぐらいだ。

 それで、勘定方を全部任せるから君がやれということで、農民出身の方谷が財政再建の陣頭指揮をとるようになった。だから、武士たちから反発を招き、命まで狙われるようになった。しかし、殿様に命じられた以上、方谷はやり遂げるしか道はなかった。

 当時、藩では藩札を出していたが、10万両もの借金があったので通用していなかった。

 そこで方谷は大阪の両替商を訪ねる。方谷は、きっちり書いた財政再建計画を見せ、財源がなくては何もできないので、返済はするから借金の利息は待ってくれと頼みこむ。10万両の利息は大変な額だったが、それを待ってもらったことで、財源はできた。

 まず、やったのが藩札の処分だった。各家の箪笥の中で溜まっていた藩札を藩に持ってこさせ、それを銅とか金に換えた。

 最初、死蔵状態で流通しない藩札だったから、みんな半信半疑だったが、ちゃんと換えたのでびっくりした。それらは利息を負けてもらったので払えたのだ。

 それで、方谷は藩庁の前で衆人監視の中、藩札に火をつけて燃やした。彼のパフォーマンスだった。

 その上で、新しい藩札を発行した。今度は信用がおけるということで、それが立派に流通して隣の藩まで藩札を買ったという。

 それだけではない。岡山には砂鉄がとれる。今でいう製鉄所だが、たたらをあちこちに作って、備中鍬という3本の歯がある鉄の鍬を作った。

 当時の日本の総人口の8割は農民だった。農民というのは、鉄の農機具というのは、のどから手が出るほど欲しかった。彼が偉いのは、備中鍬を大阪で売らずに、船を仕立てて、江戸で売った。

 その備中鍬が、羽が生えたように売れに売れたのだ。大阪商人を介せば、流通を握っているから便利だが、それだけ利幅は薄くなる。

 それで、どんどん収入が上がって、わずか5年で10万両を返済したのみならず、同時に藩には10万両の貯蓄が出来た。

 藩政改革では上杉鷹山が有名だ。しかし、藩の財政改革を成し遂げるまでに30年かかっている。それを5年でやったということで、小さな藩に過ぎなかった備中板倉藩の殿様は、幕府の老中にまで出世することになる。

 あんな小藩で、老中になることは歴史上ない快挙だった。

 なお、方谷は、道路や港など基礎インフラも整備している。

 それで、農民を兵隊に仕立て上げた。奇兵隊というのは高杉晋作がやるが、その先鞭をつけたのは方谷だった。農民を入れた農兵隊というのを作って、それを長州の久坂玄瑞が見学に来ている。それで長州に奇兵隊が作られるようになっていった。

――もともと奇兵隊の原点は岡山だったのか?

 そうだ。山田方谷が始めた。

 一部の武士だけじゃ、限りがある。だから人口の多い農民にも、藩を守る意識を植え付けた。訓練して始めたのが農兵隊だった。方谷が農民出身だからこそできる発想だった。

 それで、大久保利通だとか明治の志士たちが評価して、方谷に明治政府の大蔵卿をやってくれと言われた。しかし、方谷は自分は殿様に見い出されて恩がある、と言って殿様の側につき、岡山に帰ってしまう。岡山で教育を一生懸命やっている。

 それを安倍君に、そういう発想で政治をしなさいよ、という気持ちで代表質問に立った。まだ日本は資金があり技術力もあるのだから、方谷のように目に見える形でやるべきだ。

――そうした人物を見出した殿様もすごいけど、何より本人がすばらしい。方谷の原点は陽明学になるのか?

 そうだ。彼が一生懸命、学んだのは陽明学だった。

――陽明学と朱子学の違いは一言でいうと何か?

 朱子学というのは、武士というのは死を覚悟してすべてやらないといけない、ということだ。陽明学というのは似ているが、いわゆる経済なんかも、徳をもってやらないといけないという徳治論的なところがある。

 だから、大阪の両替商などを説得したのも、方谷に「この人ならば」と思わせるような徳があったからこそ出来たことだ、と思う。

 そうじゃなかったら、海千山千の両替商が、利息を減らすようなことはしない。この人間は違うな、というものがあった。

――方谷の影響で、渋沢栄一の「論語とそろばん」が出てくる。

 そういうことだ。

――藩政の立て直しもすごいとは思うが、現在の日本で必要なのは、そういう道徳心の涵養というか徳だと思う。経済第一主義だと、この国はおかしくなってしまうし、未来は危うい。

 その通りだ。市場原理主義だとか新自由主義というのは間違いだ。竹中平蔵というのは愚の骨頂だ。

――だが、現実は経済至上主義と拝金主義が世界に蔓延している。

 僕は、米国とは仲良くしないといけないと思うが、警戒しないといけない側面もある。

 彼らは、アメリカ大陸の先住民を殺戮して、国土を広げていった。日露戦争があった時、オレンジ計画というのをセオドア・ルーズベルトが作って、それを11回改訂し、甥のフランクリン・ルーズベルトが出てきた時に、日本が敗れた。

 だから警戒しないといけない。日米構造協議から始まって年次改革要望書、それに今のTPPなってきている。これらの交渉ではアメリカは全部、自分たちの利益のことしか考えていない。

 日米安全保障条約第5条があるから、尖閣諸島に一旦緩急あったらアメリカが助けに来てくれる、とみんな保守の連中は思っている。

 絶対、来ませんよ。そんな尖閣みたいな島に、アメリカの若者の血を流すようなことはしませんよ。

 だから、軍国主義になれというのではなくて、この国と安全と平和は、少なくとも自らの力で守るように方向転換しないとだめだ。

 そのためにも憲法は改めないといけないというのが私の持論だ。

――日本独自の安全保障では、中国やロシアの核の脅威にさらされる。

 中国は毎年2ケタずつ軍事費を増やして、20年前から軍事費が20倍になった。

 少なく見積もっても、日本の防衛費の3倍以上だ。そこで何を整備したかというと、核弾頭ミサイルで、ICBMも巡航型ミサイルも、アメリカ本土を狙える。

 もし、中国に変なことをしたら、われわれ13億人の人口を擁する中国が、お前の所にICBMを撃ち込むぞと威嚇できる立場にあるのが中国だ。

 これにはアメリカも弱い。

 核弾頭のSLBMを積んだ原子力潜水艦も持っている。これも太平洋を遊弋していて、一旦緩急あれば、海から撃ってくる。かつて台湾で初の総統直接選挙があって李登輝氏が出た時、中国はミサイルを台湾沖に撃った。アメリカは空母二隻を急派して、その時は中国は引き下がったけど、今は引き下がらないだろう。

――今回、北京で開催されたAPECで安倍首相と習国家主席が会談した。

 会う必要はなかった。目も合わさず、苦い顔をして、あんな日本人をバカにした慇懃無礼な態度はない。

――尖閣問題は、問題があることを認めた格好になっているが、禍根を残すことにならないか?

 その通りだ。

 だから、尖閣には兵隊でも常駐させないと、軍人じゃない漁民に偽装した工作員が数百人乗り込んできたら、海上保安庁じゃ対処できない。

 そもそも1972年まで、中国は尖閣の領有権を主張してこなかった。アメリカが沖縄の施政権を取った時に、尖閣諸島は石垣島に所属しているから、尖閣列島の施政権もアメリカに移った。

 アメリカは尖閣を何に使ったかというと射爆場に使った。爆撃機で爆弾を落としたりして使った。それでも中国はその時、一言も言っていない。

 それで、国連が海洋資源を調査した時、東シナ海のあのあたりに天然ガスがいっぱいあると発表してから領有権を主張し始めた。

――後出しジャンケンだ。

 そうだ。それで中国は毎日のように出てきている。海上保安庁の操艦技術はうまいから、内側に入り込まないようにうまくやっているけど、ただ入りにくくしているだけだ。

――鄧小平は当初、尖閣は次世代の人に解決してもらおうと言っていた。鄧小平の韜光(とうこう)養晦(ようかい)路線を放棄したのはいつになるのか?

 経済発展のめどがついたということで、鄧小平時代の後半からそうなったと思う。

 私は大臣をやっていた時、上海とか北京の空港を見てみると、日本の資金援助で建設されていながら、それを一行も書いていない。宝山の製鉄所や大慶の油田なんかも、ぜんぶ、日本の資金援助によるものだ。日本人は人がいいから技術もぜんぶやって、それで無償援助はするし、借款もやる。しかし、中国はそんなことは全く評価していない。

――人の好さは、同じ島国の台湾に似ているところがある。

 僕は、日台議員連盟の会長をしている。中国は、僕みたいな台湾シンパを呼びたいわけだ。

 それで、中国の外交部の上にある共産党外交組織の最高責任者の王家瑞部長が、ぜひ、中国に来てくれと言う。行き帰りの飛行機は全員、往復ともファーストクラスを用意する。北京のホテルは全員、スイートルームを用意する。魚釣台で歓迎の晩さん会を開催するという提案だ。

 私は台湾の代表に、中国からこんな招待が来たよと見せた。台湾の人たちは大人だから、にやにや笑って「先生、勉強になるから行ってらっしゃいよ」と言ってくれた。

 それで「じゃあ行きますよ。でも、中国に行く飛行機代もホテル代も私は自分で払います。あなたたちの世話にはなりません。ただ、魚釣台の晩さん会はあなたたちに失礼だからお受けします」と返事した。

 一番警戒しないといけないのは通訳だ。だから、日本人の男の通訳を連れて行った。それで喜び組の洗礼はなかった。

――ハニートラップを警戒したわけだが、過去、いろいろあったということか?

 私と仲のいい亀井静香という政治家が、中国に呼ばれたことがある。当時は、警察庁出身の後藤田さんが生きておられて、亀井は後輩だから『君、中国に行くらしいな。女に警戒しろよ」と言われて中国に行った。

 亀井は、私みたいに通訳を用意などしないから、とびきり美しい通訳がついたらしい。その通訳が、離れた位置で通訳をしないで、耳もとでささやく。しかも、なかなか帰らない。

 それで、亀井は「惜しいことをした」と言う。

――橋本首相の事件もあった。

 産経新聞の記者がやられたり、自殺した外交官や自衛官もいた。

――中国は、王道ではなく覇道の国だ。手練手管を使って、カードを切ってくる。

 名前こそ出さないが、自民党の現職議員だって何人もやられている。

 そういうのは写真を撮られている。魚釣台では、駐日本大使をしていた唐家.が僕を招待した。

 唐家セン(王へんに旋)は靖国問題を持ち出してきたから「あなたが僕を呼んだのなら、僕の事は調べているでしょう」と聞くと、うなずいた。

 さらに続けて「私の先代の平沼騏一郎というのは大東亜戦争に反対して、開戦の年の昭和16年に右翼からピストル5発を首から上に撃ち込まれたのです。終戦時には枢密院議長として、ポツダム宣言を受諾しろと言って、それで阿南大将率いる陸軍が終戦の朝、トラック2台、機関銃3丁で自宅を急襲し焼かれたんですよ。僕は6歳でピストル突きつけられた記憶がある。そういうのも永久戦犯で靖国に入っているのですよ。あなた、私の事を調べているでしょう」と唐家.に言ったら、中国人というのは調子いいんだ。

 「お食事の準備が出来ています」と宴会場に案内して、それ以上何も言ってこなかった。

――中国はアジアインフラ銀行やBRICS開発銀行を始める。軍事力だけでなく、金融覇権をも握ろうとしている。

 日本が総裁を務めるアジア開発銀行の向こうを張って、アジアを取り込もうとしている。

 「王侯将相、寧くんぞ種有らんや」という易姓革命の国だから、そういうことにはたけている。ただそういうのは必ず失敗する。中国は今、年間20万件もの暴動が起きている国だ。

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