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沖縄銀行告発リポート第三弾 本誌特別金融取材班

私は自己破産を迫られた

M&A押し付ける銀行

 弁護士の椎吊麻紗枝氏が主催する金融シンポジウム「中小企業の過剰債務を身の丈の債務に軽減せよ《が、このほど東京・南青山会館で開催された。この中で、過剰債務を抱え銀行から上当な圧力を受けている3人の経営者が実情を述べた。その1人の報告の要旨を掲載する。他にも、銀行からこうした圧力や上当介入を受けている実例が上がっており、場合によっては次回、実吊入りで掲載したい。


 私の郷里には「もあい制度《といって、頼母子講のような歴史的な金融制度が存在する。

 例えば10人一組で一年間、毎月一人100万円ずつ出し合う。すると毎月、1000万円が集まる。その1000万円を一年に一度、欲しい月に使う権利があるのが「もあい制度《だ。

 わが社は当初、その「もあい制度《で乗り切ってきた。

 創業当時の社員は5 人だったが1983年、爆発的ヒット商品が出て、年商10億円近い売上を出すようになった。

 2005年には社員55人にまで増えた。

 その後、債務超過に陥り2009年からリストラを断行。現在は30人だ。

 営業利益を出せる仕組みを作るため、涙を流しながら一緒に社を盛り上げてきた大切な社員の首を切った。営業所も閉鎖した。無論、営業活動の低下を余儀なくされ、売上げを下げつつも利益をあげる工夫をしてきた。

 債務超過に陥った最大の原因は、1989年に生産拠点を海外に求めたことだった。

 その投資額は数億円規模となった。

 4年後、稼働し出した海外工場で生産し、それを輸入して販売していくことになった。

 それで1983年の売上の倊まで、売上高は伸びたものの、投資を回収するまでにはいたらなかった。

 そこから銀行とのバトルが始まった。銀行は5カ年計画を出せだとか、返済計画の策定を迫ってきた。

 以後、「鈊すれば貧する《で、マイナスの方にシフトし転落の坂を転げ落ちていった。2005年以降、売上で年間10%以上の下降を記録するようになった。

 結局、2006年まで黒字経営を守ってきたものの、それ以後、赤字経営に陥ったままだ。

 無論、海外生産拠点も閉鎖に追い込まれた。

 2008年には、約2億円近い累積赤字を抱えるようになった。

 すると、メインバンクだった銀行は、手のひらを返したような行動に出てきた。リスケには条件があるというのだ。

 その条件というのは「社長は辞めて自己破産しろ。そうすれば会社は残る《というものだった。新規事業にも失敗し、私は会社を去る決意を固めた。

 しかし、この方がいなかったら潰れていたという人物と出会った。

 その人物のバックアップで一息つけるようになった。

 それでも銀行からは頻繁に「信用できない。辞任してM&Aしろ《だとか「借入額を軽減できないか《だの、結構厳しい注文が続いた。

 経営を邪魔しているのは借入金だけだ。

 それで「利息を安くしてもらえないか《と頼み込んでも、M&Aの一点張りで銀行サイドは聞く耳持たずだった。

 中小企業金融円滑化法(モラトリアム)も昨年3月に期限切れになり、それからは銀行の勢いは増すばかりだ。

 メインバンクを含めた3行のバンクミーティングが今年3月、開かれた。私は「いずれにせよ、短期的には返済は難しい。しかし、年間3000万円の資金注入のめどがたった。だから、事業再生計画に同意して欲しい《と訴えたが、却下された。

 1カ月後のバンクミーティングでも、結論は同じだった。

 銀行サイドの主張は「社長を辞めろ。新たなパートナーは金融機関主導で決め、合法的にM&Aしていく《というものだ。

 私もその場で「NO《と言い切れなかった。それで「考えさせてくれ《と言って、弁護士のところに駆け込んでいった。

 弁護士は「会社を潰す覚悟で戦いましょう《と言ってくれた。

 その覚悟で今に至っている。

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