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JHC板橋会理事長 寺谷隆子氏に聞く

精神障害者ケアの一本道

板橋の魂の伝統を守る

 精神病院に22年間勤務していた寺谷隆子さんは、就業半ばで退職する。仕事が嫌になったからではない。退職金が欲しかったからだ。その退職金で精神障害者のケアをするJHC板橋会を立ち上げるためだった。そのJHC板橋会が先月、創立30周年という節目を迎えた。ときわ台駅の側にあるJHC板橋会には、気軽に多くの市民が立ち寄り、市民ぐるみで精神障害者と共生する板橋ならではの伝統が息づいている。個人主義というのは相手の事を思いやる個の確立があってこそ意味があるものだが、今の個人主義はエゴイズムと化している現実がある。そうした文明のひずみと抗っているJHC板橋会の闘いぶりに、共感する支援者は多い。


――精神障害者をケアしてきたJHC板橋会が創立30年周年を迎えた。論語に『10年偉大、20年畏るべし、30年歴史になる』とある。何でも継続することは大変なことだが、本物は続くものだ。あるいは続けることで本物になることもある。30年を回顧して今、思うことは?

寺谷 私は昭和16年生まれだ。第二次世界大戦が始まった年で、両親ともども開業医だった。患者の中には、疫痢の子供を置いていったりした人もいた。だから、私はしばしば疫痢の子供と布団を共にした。

 姉たちは学童疎開で家を離れたが、私は縁故疎開だった。縁故疎開は私以外に男の子8人が一緒だった。みんな6歳以下で、一つのかやの中で9人が暮らした。だから私は専ら、メンコとかビー玉、コマだとかで遊び、女の子の遊びを知らない。

 そこで育ててくれた地主のお母さんがとても良い人だった。空襲警報が鳴ると、私はちびだからいつも抱えられて、残された子供たちは、急いでお母さんの首にぶらさがったりして、防空壕の中にぽんぽん、入れられ避難した。

 防空壕の中には、川ガニがいる。私たちは空襲とは関係なく、ただ川ガニをとっては生のまま食べていた。

 みんなで分かち合うというのは、そのころ根付いたなと思う。雑草のような食用の葉っぱを拾ってきても、一人で全部食べるようなことは誰もしなかった。

 一枚の葉っぱでも、ちょっとだけずつみんなで食べた。

 だから昔のほうが、みんなに優しかったと思う。

 昔は路上で生活する児童も少なくなかった。父親は味噌汁を全部、飲まず少し残せと言っていた。

 魚をみそ汁の中に入れて煮て、身はちょっとおかずで食べて、残したその骨と頭を台所に置いておく。

 すると、路上で待っていたかのようにダーと走ってきて、それをつかむ手だけが見える。それを家の前の道路で食べている。

 そういう家が何軒もあって、ご近所がみんなそういうことをしていた。

――両親のそういう気質と板橋の土地柄みたいなものが、そのまま寺谷さんに凝縮されている気がする。

寺谷 板橋は中山道の街道町であり宿場町(板橋宿)だった。宿場町の宿命として貧しい農村から娘たちが女郎として働き、病で郷里に帰ることもできずに生涯を終える人も少なくなかった。

 板橋には、そうした人生の悲哀を分かち持つ町の人々が、支えあい守ってきた町柄がある。

 縁結びの神様というのはあるが、板橋には縁切り地蔵がある。

 郷里に戻る夢もかなわずに板橋を終の棲家とした人たちの、願いや夢をまるで自分のことのように感じ、受け止め、無料炊き出しに協力し合う住民の姿は、今日にも続く板橋の風土であると言える。

 板橋には昔から身寄りのない高齢者や児童などの国公立の医療や福祉の施設が長い歴史を刻んできている。ニンビズム(ノットインバックヤード)といって、気の毒だけど、自分ちの近くは嫌だというものだ。そういう時代の中で、みんなで支えあう責任を分かち持ち、自分たちにできることは何かを考え共に活動することが板橋の風土と言えるだろう。

 板橋には、近代社会福祉の礎を築いた長谷川良信がいる。「貧民街の聖者」として知られる賀川豊彦や日本福祉大学創立者である鈴木修学と並び、宗教理念にもとづいて実践を行なった三大社会事業家の一人とされる人物だ。

 「東の長谷川、西の賀川、中部の鈴木」と称された。終生、肺結核など数々の病に悩まされながらも、セツルメント活動や婦女教育においては実践を重視し続けた社会福祉の元祖的存在だ。

 長谷川の哲学は「彼のためではなく、彼と一緒に」という共生型ケアシステムを作り上げた。打ち捨てられた子供たちのための施設を作り、それが発展して現在、淑徳短期大学になった。

 何で自分だけが親のすねをかじって学校に行って、何で前席の子が一人ぽっちなのか。

 小学校の時の担任の先生が、教室にいる同級生を親が呼びに来ていると言って帰宅するように言った。迎えに来た母親は「何で学校に行くの」と連れ帰した。今と全然、違う。労働力として子供は貴重な時代だった。

 先生が帰りに、私たちを連れてその子たちの家を訪問して、今日はどういうことを勉強したと伝えていた。卒業前に、その子は養子になって別れていった。飛行場で見送った私たちは、ちっともハッピーとは思わなかった。そばにいるということこそが大事だ。

 精神病院に勤めた時、自分よりよほど知的能力の高い人がたくさんいた。英文タイピストだった人は英語もペラペラだし、保護室に入れられたりとか、おかしなことを時々言うが、そんなのは夢だと思えばいい。

 おかしなことを言われても、別に殺すわけではないので、ちっとも怖くなかった。

 その子に英文タイプはこうするのよとか、英語を教えてもらったりした。そういう人が周りにいっぱいいた。

 そうやってみていけば、今、ここに通っているメンバーだって、一人一人、すごい潜在力はあるし、それを活かせる機会がないだけの話だ。そうした能力を開発することが肝要だ。

 それも難しい話ではない。だって、頼めばいいのだもの。

 「玄関をお掃除してくださる」とか、米国だと自家用車を洗車してくれとかお願いをして、それで何ドルかあげたりとかしている。

 福祉というのは、学びあったり、支えあったり、責任を分かち持つことが重要だ。大人も子供も人間はみな、経験で得た強みを持ってるはずだ。その強さを互いに分かち合えることこそ、共に生きる共生社会を構築できる。

 精神障害者のケアというのは、難しい技術的なものではない。「いってらっしゃい」とか「元気?」とか、あいさつを交わすのは誰だってできることだ。

 そういうことで元気をもらえる。

――精神障害者のケアをする上で、転機になったのは?

寺谷 米国のピアカウンセラーに出会ったことが大きい。ピア(peer)とは、共通の経験と関心を持つ仲間という意味だ。

 1988年ごろ、精神科医の秋元波留夫氏が「たかちゃん、この人のいうことを聞きなさい」と連れてきて引き合わせてくれたのが、国際ボランティア協会の日本支部事務局長だったシャーリー・セント・ジャン氏だった。

 その人が「あなたたちの仕事は、精神障害者の可能性を信じ切れるあなたであるかどうだ」というのがとてもショックだった。

 「能力はみんなにある。だけど、それを信じ切れる周りの人があまりにも少ない。可能性のあることを信じ切れるあなたであるかどうかが問われている」と彼女は語った。

 それでクラブハウスをやった時に、これで「地球村になった」との言葉を、刺繍の額縁を日本人に作ってもらって持ってきた。

 これを板橋区の区長さんと私にプレゼントしてくださった。

 彼女のメッセージは「見るべきは地球村であって、自分たちの国だけ見ていてはだめだ」というものだ。また、潜在力を活かせない事こそが問題だ、という基本認識がある。

 クラブハウスでは、世界共通の7つのプログラムが規定され、ランチユニットとしてランチと喫茶サービスがある。

 そこでは最初、料理の経験もなく不安な様子であった利用者が、自分で選んだ役割を担って、頼りにし合う相互信頼の絆を示していただいた人もいた。困難さは誰にでも身近にすることだが、だれもが希望する限りはそういう人も参加していただいて運営してこそのクラブハウスだ。

 学び合って支え合う責任がみんなにある。それを分かち持てるかどうかだけの話だ。それ以外は何もいらない。

――2018年から精神障害者の雇用義務というのが、スタートする。

寺谷 昔の日本の労働基準法では、精神病患者の就労禁止法というのがあった。精神病患者は働いてもいけなかったし、企業はそういう人を雇ってもいけなかった。

 昔の日本は、精神病患者を社会から隔離する方針だったのだ。

――国家が精神病患者を引き受けるということだった?

寺谷 国家が精神障害者を保護しないといけないというものだった。精神病院に強制入院になった場合、無料だった。それが平均入院日数が400日となって、世界でも異例の事態を招いた最大の理由だ。

――精神障害者のケアにおいて進んでいる国は?

寺谷 精神病院を廃止したイタリアだろう。イタリアなどでは、当事者同士で助け合うセルフヘルプ哲学の下、グループを作ったりしている。

 私たちの仕事は、人間の持っている可能性を開花させる仕事と、もう一つはコミュニティーを開発することだ。

 取り締りを厳しくすることで、社会の安全保障が担保できるわけではなく、みんなにオープンにしておけば、逆に安全だ。

 そういう人がお友達を作ったり、10年、20年と引き籠って、人に顔を合わせないようにして、昼間寝て、夜、起きてといった引きこもりのような暮らしをしてきたんだとおっしゃっていた方がいたが、そうではなく、ごく普通に生きられるような環境をどう作っていくかが課題だ。

――大事なことだと思う。明治維新後、近代化を目指して日本は走ってきたが、共同体のパワーみたいなものが都市化文化の中で失われてきている。それを再生するということは大事なことだ。

寺谷 そのために精神障害者も、その経験を活かして、市民と共に学び合ってもらう。そうすれば当事者が教育者にもなる。そして、町の人たちが理解を深めて、自分たちに何ができるか応援していくようになることが大事だ。

 板橋区徳丸商店街では、企業とのコラボが始まっている。建築会社が五階建てのビルを建て、ホテルのロビーみたいなショウルームの一階を、昨年2月から私たちに貸してくださっている。

 オーナーは「寺谷さん、11年間、待たせてごめんなさい」と涙ぐんで「電気代や水道、ガス代金、全くいらないから使いなさい」と言ってくれて、「ShowRoom Cafe すまいる」を開設した。

 メンバーは、そこでウエイターやウエイトレスをやって、一杯350円のコーヒーを作り、その売上で自分たちのお給料にしている。

 ただ、なかなかお客さんが入らないので、町内会の人がフラワーアレンジメントの教室など、おばあちゃんたちが集まってお稽古ごとをしている。

 それで収入をあげたり、私たちが自由に使ったり、音楽講師を招いてピアノ教室を開いて20人ぐらいの生徒をとったりしている。メンバーにしてみれば、音楽を聞くことで自分の癒しを得るし、高校生が来たりして世代間の交わりがある。

――精神障害者ケアーに携わった者として、政治に要求することは何か?

寺谷 ピアカウンセラーの任用制度をお願いしたい。

 誰もが社会の構成員として、学びあい支えあう責任を分かち持ち、あらゆる活動に参加・参画し、共に生きる町づくりを目指すためにも、障害者をはじめ家族、住民の参加を基本とした地域に根ざした包括的支援システムが肝要となる。

◇     ◇     ◇

――「人」と言う字が、支え合っての人で、一本じゃ人にならない。JHC板橋会では精神障害者の就業にも力を?

下園 当初、知的障害者を企業は受け入れはしたが、精神障害者の就業には時間がかかった。だが、平成18年度より東京都とか職業センターなどが仲介役になって、コープとうきょう(現、コープみらい板橋センター)で精神障害者の施設外授産事業が始まり、コープみらい・JHC板橋会との二者独自の就労支援プログラムとして継続実施している。

 企業の中で働くというのはこういうことだよという経験を、みなさんに知っていただいている。例えば自分一人が休むことで、どれだけ他の人に迷惑がかかるのか、そういうことも体感していただく場として、コープみらいさんでの訓練の場は貴重なものだ。

 JHC板橋会でも、プログラムの中でコープみらいでの訓練の場があるというのは、売りになっている。

 また受け入れる企業側でも、精神障害者がどれだけ働けるのか疑問に思っている方たちをお連れして実際に見てもらって納得していただき、自分の会社でもこれだけ働けそうだなといったイメージ作りをしていただくモデルになっている。

――何人が?

下園 このプログラムは、訓練して労働者を育成するというのではなく、チャレンジしてみて、もう少し訓練が必要だと思ったら、強みをさらに見出したり、苦手な部分に取り組む。あくまで一般就労という希望をかなえることを主体に置いたプログラムだ。

――これまでの実績は?

下園 平成25 年度までの実績だと、18年から始めて、そのままコープみらいに就職された方が6人。それ以外の他の方たちは、訓練経験を活かし、まったく違う業種、会社に就職している。

 平成25年までにトレイニングし就職に結びついた方は48人。実際の企業現場でトレイニングを積むことで、みなさん自信をつけて就労に至っている。

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