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温情なき審判の危うさ

更生保護法人関東地方/更生保護事業協会理事
下地常雄

力の絶対化はゆがみ生む
 昔、欧州の宮廷には道化師がいた。
 他の人が王様に正面切って言えないこ とを口にしても、道化師は罰せられるこ とはなかった。笑いという隠れ蓑を使っ て、王様を茶化したり、皮肉を言うのが 道化師の役割だった。
 絶対権力者のそばに道化師が控えてい たのは、ある種、バランス感覚を保つた めに必要だった。
 道化師がおどけて示す別の視点は、時 に「裸の王様」という亡国の道に踏み入 ることを防いだ。
 だが現在、日本に道化師はいない。悪 い奴はみんなから、寄ってたかってぼこ ぼこにされてしまう。いじめ同様のこと が行なわれ、そのいじめを茶化す道化がいない。
 叩く主体はマスコミだ。司法、立法、 行政に次ぐ第四権力と言われてきたマス コミは今や、政治家を永田町から、高級 官僚を霞ヶ関から放逐するパワーを持 ち、国家権力をしのぐ力さえ時に発揮す る。
 だが、力の絶対化は社会にゆがみをも たらす。

財務次官とTOKIOの山口氏
 今回の財務省の福田次官のセクハラ問 題やTOKIOの山口氏の強制わいせつ 容疑だって同じだ。
 福田淳一・前財務事務次官は、女性記 者にセクハラ発言を連発したとされた問 題で辞職。山口達也氏は所属事務所から 契約解除された。
 悪いか悪くないかといえば、当然、彼 らの行為は悪いに決まっている。
 しかし、福田氏や山口氏が強姦したと いうなら、弁明の余地はないが現実はそ うではなかった。
 福田氏は霞ヶ関から放逐され、山口氏 は芸能界から放逐された。1人は官僚生 命を絶たれ、1人は芸能人生命を絶たれ た。
 身から出たさびといえば、それまでだ。 だが、人には適度の制裁と再起のチャン スが与えられるべきだ。
 ジャーナリズムが煽った今回の社会的 制裁は、行き過ぎてはいないかと危惧す る。

水清ければ魚住まず
 福田氏の件では、麻生太郎財務相が「セ クハラ罪という罪はない」と述べたこと も批判された。
 だが、これが批判されることなのか。 六法全書に、セクハラを違法として裁い て罰を与える条文はない。麻生氏は事実 を言っただけのことだ。
 別にセクハラぐらいいいじゃないか と、言っているわけではない。セクハラ というモラル違反は女性の心を傷つけ る。
 ここでは、バッシングの程度の問題を 論ずべきだろう。
 「水清ければ魚住まず」とも言う。徹 底したクリーンさを求めると、社会は酸 素のない水槽の魚と同じで、息苦しく社 会の活力はそぎ落とされてしまう。

悪のレッテル貼り
 悪のレッテルを貼って、容赦なく鞭を 打つというのは、かつて中国で行なわれ た文化大革命やカンボジアの大虐殺すら 彷彿させる。
 そのカンボジア内戦で多くの犠牲者を 出し、戦火が消えてからまだ30年もたっ ていない。
 ポル・ポト政権による大量虐殺により、 私たちくらいの年代で生きている人はほ んの僅かだ。国民の平均年齢が24歳で、 一時は14 歳以下の子供が国民の 85 %を占 めていたこともあった。
 カンボジアの大虐殺では、人々はメガ ネをかけているだけで、インテリとみなされ糾弾の対象となったし、中国の文革 では子が親を「反革命」で訴え、生徒が 先生をつるし上げるという非道が行なわ れた。
 カンボジアのポル・ポトの大虐殺も中 国の文革も、大昔のことだと笑ってはい られない。

自分の頭で考える
足を地に着けておらず、自分の頭で考 えず、時流にただ流されるという意味で は現代の風潮も同じだ。
 自分の頭で、あれこれ思いをめぐらす ということが大事だ。
 ああでもない、こうでもないと考える ことで、バランスがとれた的確な結論へと導かれるものだ。
 学ぶだけで思考しなければ知識を生か すことができず、思考するばかりで知識 を学ばなければ賢明な判断はできない。 熟慮というのは、そういうことでもある。
 堂々巡りの思考ではいけないが、回り まわって同じ結論に至っても、それでい い。決して、時間の無駄使いではない。

ひどかったパンツ大臣批判
 少し前には週刊誌などが、高木毅復興 相(当時)を「パンツ大臣」とまでこき 下ろし、面白、おかしく報道していたこ とがあった。
 そもそもこの問題は、拘束されて有罪 になった事件ではない。当事者の告訴や 告発もなく立件されることもなかった。 たとえそうでなくても、 30 年以上も前の 話で既に時効となっているし、個人情報 保護法にも引っかかる話だ。

 決して高木復興相の肩を持つわけでは ないが、誰しも、すねに傷のないものは いないだろう。その古傷があるからこそ、 人の不徳に対しても一方的な断罪ではな く、親のような大きな目線で対することができる。
 そもそもジャーナリストは、ひとかけ らの非もない聖人君子なのか。武士の情 けという言葉があるが、昨今の報道を見 ると他者への愛情や思いやりというもの が微塵も感じられない。
 人の口に戸は立てられず、いろいろ言 う人の口は仕方がない。しかし、それを 活字にして媒体に掲載したり、ネットに 流したりするのはいかがなものか。そう いうものを許している社会もおかしい。 法務省に矯正局はいらなくなる。
 ましてや高木復興相の場合には、ただ 警察に呼ばれて事情聴取されたぐらいの 話だ。

言論の十字砲火
そもそも、政治家というのはなりたく てなれるものではない。親の七光りがあ ったとしても、本人に光り輝く何かがな ければ支持者らの求心力をいつまでも保 てるものでもない。
 そうした政治家としての尊厳の核心に 触れることなく、過去の瑕疵らしきもの に一点集中させて言論の十字砲火を浴びせるというのは、社会の木鐸であるはず のジャーナリズムのありようとしては違 和感を覚える。
 中国や北朝鮮など言論の自由が無いと ころでは、言論の自由こそが政治的に保 障されるべき課題となるが、言論の自由 があるところでは責任と良識のある言論 の有り様が課題となる。
 とりわけ、言論のリンチをも髣髴させ るようなメディアの有り様に民主主義の 危機さえ覚える。
 刑務所に入るのも、矯正して真人間に なってくださいという社会再生のシステ ムとして存在する。しかし、服役して出 所してきても前科者の烙印を押されて、 世間の目は冷たいのが現状だ。
 罪を償って、外に出てきた人自身が、 自分の罪を悔いるのは分かるが、マスコ ミがその前科をあげつらうというのはい かがなものか。
 そこには論理も情理もない。  あるのはとにかくターゲットを悪と決 め付け、貶め、傷つけようとする集団的 熱狂のみだ。

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