回顧録19
俺を救った婆さんの一言
日本経営者同友会会長 下地常雄
宮古島への帰省
秋が深まると、故郷が懐かしくなる。
戦後、お袋と一緒に台湾から宮古島に帰ってきた。
ただ、宮古に帰っても仕事がなかった。それでお袋は沖縄本島で米軍の世話をする仕事を始めた。
小学校2年生の時、お袋は住み込みだったから、週に一回ぐらい帰ってきた。俺はサラリーマン家庭の叔母の家に預けられていた。
そして月日が流れ、小学5年生の時に、米軍の世話を辞めて昔の経験を生かそうということで、産婦人科の助産婦になった。
母親の最後の言葉
そういう時に、病気になり闘病生活に入った。
しかし、なかなかお袋の体はよくならなかった。長年の苦労で、体はボロボロだったのだと思う。さらに、お袋の病気が悪化し、宮古に帰ってきた。
小学校5年の時、亡くなった。
お袋の死に目にはあうことができ、最後は看取ることができた。
学校の授業中、先生からすぐ家に帰れと言われた。
母は寝ていた布団から手を伸ばして俺の手を触って、「ごめんね」と言ったのが最後の言葉となった。それがお袋と最後に交わした会話だった。
高校断念
中学校を卒業して、農業高校に入った。
宮古には生産高校と農業高校があった。農業のほうがいいだろうと思って、入った。
ただ、入ったのはいいが、叔母の家は高校にやれるほど裕福ではなかった。
宮古の家というのは、高床式で縁側が高い。床下には大人でも入れる。たまたま床下に入って遊んでいた。すると上で、叔母と婆さんが話していた。
「常坊、高校に入ったけど、学費もあるから…」と叔母は話していた。
婆さんは、「そんなもの、土地でも売って払えばいい」と言ってくれたが、それを聞いてて、迷惑かけるなと思い、高校には行かないと決めた。
だが、叔母や婆さんには、「学校は嫌いだから行かない」と言った。
そんな折、たまたま集団就職の募集があった。夜間高校にも通いながら働くことができるとも書いてあった。
それでこれに応募した。
俺の誓い
お婆さんの気がかりは、俺がやくざもんになることだった。
お婆さんは「お前は気が短いから、やくざに絡まれて命を落とすことも、あるかもしれんが、絶対!、やくざにはなったらいかん」と厳命された。
俺はお婆さんに「やくざにはならないから」と誓って出てきた。
その誓いがなかったら、そうした世界に足を踏み入れた可能性がある。
その意味では、お婆さんの言葉が俺を守ってくれた。
集団就職だから、本当は多人数で行くのだろうが、たまたま俺の場合は1人だけだった。就職先が臨時募集だったのだ。
人買いの手
当時は沖縄は米国領土で、本土に渡るのにパスポートが必要だった。
それで神戸港に入った。迎えに来ている人がいた。
港から神戸駅に着き、迎えの人は切符を買いに行った。
その時、「下地、ここから動いていかんよ。ここにいろよ」と念を押されたが、変な人がきた。「お前、いい仕事、あるよ」と言う。
連れはなかなか帰ってこないし、こっちでもいいやと思って付いていこうとした。その動こうとした瞬間、向うから連れが戻ってきた。
「どうした」と言うと、変な人はさっといなくなった。
俺はその時、えらく叱られた。
「お前、どこに行こうと思ったのか」と聞いてきたから「いや、付いていこうとした」と正直に答えると「お前、それは人買いじゃないか」と言われた。
もう少しのところで、食い物にされるところだった。
連れは「ああした人買いというのは、甘い言葉で誘ってたこ部屋に押し込み、ただ働きさせる怖いところだ」と、ブーブー言いながら、一緒に東京まで俺を連れて行った。
俺を2人がけの奥に座らせて、むやみに動けないようにした。
犯人の護送みたいな格好だった。
医療メーカー
私たちが向かったのは、東京の南千住にある中小企業の医療メーカーだった。今でもまだ存在する。ここには宮古の人が一杯来て働いていた。
注射器を作るガラス細工の職工が仕事だった。
押すほうの出っ張っているところを、ガスで焼き形を整える作業が専ら俺の仕事だった。
この作業は簡単なものではなく、職人の作業だった。だから一日の作業が終わっても、残業しないといけなかった。500本とか600本がノルマだ。それに賄い付きの寮生活だった。
土日が休日だったが、その週末はバイトに明け暮れた。
帝とかいったキャバレーの駐車場係りとかして稼いだ。そうすれば2日で、3000円ぐらい稼げた。この時は、朝の8時から翌朝8時まで24時間働いた。
体が許す限り働いた。
給料は1万円ぐらいで、手取り8000円ぐらいの時のことだ。
会社からは「お前、どこに行っているのか」とよく言われたものだ。
結局、勤務時間が長く夜学も行けなかった。
ダンスホール
その頃は毎晩のようにダンスホールに行っては散財していた。そのため金を稼ぐのに汗を流した。
貯めて何かしようという気持ちはさらさらなくて、専ら遊びにつぎ込んでいった。
当時、ダンスホールの入場料が500円でコーヒーが一杯200円した。
夕方から夜1時ぐらいまで開いていた。クリスマスの時には、決まって満員となった。
行きつけの場所は、映画館とダンスホールがあった新宿のミラノ座だ。そこにミラノ交遊会という遊びのサークルを立ち上げたこともあった。
すると「俺のショバで、お前は何をやっているのか」と脅した挙句、「俺の子分になれ」とやくざがやってきた。
その時、お婆さんの一言がなければ、そうした道にいっていたかもしれない。
その意味では、お婆さんの一言で人生を間違わずにすんだ。
【プロフィール】
しもじ みきお
沖縄出身で歴代米大統領に最も接近した国際人。1944年沖縄宮古島生まれ。77年に日本経営者同友会設立。93年ASEAN協会代表理事に就任。レーガン大統領からオバマ大統領までの米国歴代大統領やブータン王国首相、北マリアナ諸島サイパン知事やテニアン市長などとも親交が深い沖縄出身の国際人。テニアン経営顧問、レーガン大統領記念館の国際委員も務める。また、2009年モンゴル政府から友好勲章(ナイラムダルメダル)を受章。東南アジア諸国の首脳とも幅広い人脈を持ち活躍している。